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第4回◆植民地支配を語る「言葉」がない

中沢けい(作家)

「日韓文学者会議」で見たすれ違い

 朝鮮人「徴用工」問題を考えるという本題に入る前に、「日韓文学者会議」で見た奇妙な光景について書きたい。日韓文学者会議は1991年の東京の第1回を最初に、2000年まで断続的に続いたシンポジウムで、私は1993年9月に済州島で開かれた第2回から参加している。当時の済州島は「韓国のハワイ」と呼ばれ、ソウルから済州島へ飛ぶ飛行機は新婚旅行のカップルで満席だった。

 2022年に多くの視聴者を得た韓国ドラマ「天才弁護士ウ・ヨンウ」を視聴していたら、主人公のウ・ヨンウ弁護士の上司が済州島に新婚旅行へ行ったというエピソードがあり、そこで「済州島なんて、僕たちの両親の時代の新婚旅行先じゃないですか」と呆れられる場面があった。仕事が忙しく海外に新婚旅行へ行くひまがなかったという上司は、新婚旅行先でも仕事の電話を受け、それが結局は離婚へと繋がったというのが、ドラマの筋書きである。30年も過ぎれば確かに、ひと世代ほどの時間が積み重なっているわけだと実感する場面だった。

 断続的に開催された日韓文学者会議では、韓国側からしばしば「日本の知識人は、かつての植民地支配をどう思うか」という趣旨の質問が出た。シンポジウムは同時通訳で行われるのだが、どういうわけか、この「植民地支配をどう考えるか」という質問に対して、日本側から「戦争はよくない」という返事が返される場面にしばしば出くわした。意図的に話をすり替えたというよりも、植民地支配の話が侵略戦争の話へと横滑りし、「戦争はよくない」という決まりきった結論へと流れて行くというかたちだった。

 発言する相手の声を聞き、表情を見ながら、同時通訳で言葉の意味をレシーバーで聞く時、話がかみ合わないというすれ違いはしばしば起きる。かみ合わないまま、双方で意気投合することも珍しくなかった。「戦争はよくない」という言葉で、韓国側は現在も継続中である朝鮮戦争、あるいは、93年当時の話題として湾岸戦争についての感想を述べ、日本側は原爆の被害などを話題として出し、話はますますかみ合わないままだが、気分的な意気投合の雰囲気が出来上がることも珍しくなかった。

 シンポジウムの記者会見で、記者から「日本の植民地支配についてどう考えるか」という質問が出ることもあった。こちらは逐次通訳だから話がかみ合わないことはなかったが、「過去に大きな間違いを犯したが、未来は両国が共同して開いて行くべきだ」と言った一般的な回答で終わってしまう。これは記者会見というものの性質として、そうならざるを得ないところもあった。

30年で大きく変わった日本人の韓国観

 日本が近代化の過程の中でとった富国強兵、脱亜入欧の政策と植民地支配について、日本人は知識も言葉も乏しいということに気づいたのは、ヘイトデモが繰り返されるようになった2012年以降のことだ。

 90年代の日韓文学者会議に出席した韓国の作家、詩人、劇作家は、それぞれに魅力的な人々であった。「近くて遠い国」と呼ばれた韓国社会の変化と、そこで生み出される文学の消息を聞く時、そこに魅力的で対等な隣人の存在を感じることができた。だから、過去は過去として尊重はするが、それよりも韓国の文学者が新たな地平を開く推進力に魅力を感じていた。

 2000年に韓国ドラマ「冬のソナタ」が日本で受け入れられた頃を境に、ソウルへ出かけても対日感情が大きく変化していることを肌で感じることができた。日本から韓国への留学生も増え、韓国から日本への留学生も増えた。東京の新大久保には、ニューカマーと呼ばれる韓国人が経営するレストランや化粧品店、Kポップの歌手が出演するライブハウス、韓流スターのブロマイドなどを売る店が並んだ。新大久保は活気と熱気がある街になった。韓国旅行と言えば妓生観光という時代が終わりを告げていた。

 しばしば、日本人の韓国、朝鮮半島への差別意識は変わらないと言われるが、1993年から2000年、さらには2010年代の変化を思い出す時、「とんでもなく変わった」というのが私の率直な感想だ。
 日本大学芸術学部文芸学科の韓国人留学生であったキム・スンボク氏が韓国書籍の日本語翻訳出版社を設立したのは2012年のことだ。以前は韓国の翻訳物は売れないといわれたが、『82年生まれ、キム・ジヨン』がベストセラーとなり、韓国本の翻訳出版も飛躍的に増えた。映画『パラサイト』のアカデミー賞受賞、BTSのグラミー賞候補なども大きな話題となった。そこに見える世界、行き交う人々と、「戦後最悪の日韓関係」と呼ばれるもう一つの世界は、まるで別世界だ。生きている時代が違う人が、同じ路上を行き交っているような奇妙な光景を見ることができる。

安倍元首相の韓国攻撃の隠れた狙い

 「慰安婦」問題を扱った模擬法廷である「女性国際戦犯法廷」が東京で開催されたのは2000年12月だった。これを伝えるNHKのドキュメント番組の制作過程で、自民党の安倍晋三官房副長官(当時)と中川昭一議員による政治介入による番組改変が行われたと朝日新聞が報じたのは、2005年になってからだ。安倍氏と右派勢力が近づいたのは、この番組改変の頃からだといわれる。この頃は、SNSで「慰安婦」という単語を持ち出しただけで猛烈な攻撃を受けることも珍しくなかった。

 日韓外相会談で「慰安婦」問題の合意ができたのは2015年のことだ。極めて唐突な合意だった。その後、この合意は韓国側によって事実上破棄されたとみる向きもあるが、大筋では今も合意は有効である。「慰安婦」問題の解決が難しかったのは、被害者側があくまでも国家による謝罪と賠償を求める被害者側の思いと65年の日韓基本条約との整合性をどうつけるかという問題があったからだ。

 安倍氏はこの「慰安婦」問題を朝日新聞攻撃の材料としていた形跡がある。2015年の唐突な合意には、おそらく米国などからの働きかけもあったことだろう。2016年にはオバマ大統領が広島を訪問した。同年末には安倍氏が首相として真珠湾を訪問している。これに続く東アジアの和解を演出しようとしていたことは間違いない。

 安倍氏が「慰安婦」問題に代わって韓国攻撃の材料として持ち出したのが「徴用工」裁判だったと、私は感じている。「徴用工」裁判の場合は、日本の民間企業を対象とした損害賠償裁判であり、日韓条約には抵触しないはずであるにもかかわらず、条約違反とむりやりに安倍政権が主張していたというのが私の見方だ。目的は隣国を敵視することによって日本国内の左派、リベラル勢力をけん制することにある。
 だから文在寅政権から「対話」を呼びかけられても応じようとはしなかった。表向きに唱えられていることと、実際の目的がズレているので、とてもではないが「対話」どころではないのだ。

 かなり偏った見方であることは承知で書いてみた。そうした見方もあるということを知ってほしい。公的な手続きをとった「徴用工」裁判の損害賠償は拒みながら、旧統一教会による「植民地支配」を口実とした金銭の簒奪を容認したのも、日本国内の左派、リベラル勢力を抑え込む方法だと考えれば、そこになんの矛盾もない。あるのは矛盾ではなく無法だ。こんな無法がまかり通ったのも、日本がとった「植民地主義」を語る言葉の欠乏と貧しさが存在しているためだ。過去をどう弔うのかを、私は知識ではなく自分の実感の中から引き出した。それを思うたびに、日韓文学者会議でたびたび遭遇した齟齬を含んだまま意気投合するという奇妙な場面を思い出さずにはいられない。



■当サイト内参考リンク:
植民地朝鮮の状況を知る参考として。朝鮮窒素肥料(日本窒素の現地企業)での工場労働の実態。「ガス吸って病気になって死ねば(労災ではなく)私傷です。まして、朝鮮人が死んだって風が吹いたほどにも感じない」

〈「波の音をきく」編集部から〉
リレーコラム「波の音をきく」は、サイト「『徴用工』問題を考えるために」の特別企画です。「徴用工」問題に対する思いをもつ様々な人にコラムを寄稿してもらっています。
戦時中、日本の戦争遂行のために多くの朝鮮人が日本に強制連行され、労働を強いられました。私たちのサイトでは、朝鮮人「徴用工」問題=戦時強制動員問題をめぐる論議を、研究成果や判例などの「ファクト」に沿って、可能な限り交通整理することを目指しています。詳しくは以下をご覧ください。
■WEBサイト:「徴用工」問題を考えるために
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