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わからないと認知しあう事

今朝とあるオンラインの勉強にお誘いを受けたので、顔を出してきました。その中で「わからないと気づく事はいい事だ」という言葉を聞いて、これだって思いました。

昨日凹んだ話を一つ前のnoteで自分自身の記録と言語化のために書きましたが「わからないと気づきあった上で、対話を始める事」ってこれからのために必要だと思ったので書き残しておきます。

私自身、今一番困っている事ってソレなんです。

ざっくりいまの自分の状況を話しますと、議員になって約1年。議会は4回の定例会といくつかの委員会を体験しました。またこの直前の令和3年2月議会定例会では、請願という仕組みの紹介議員をしまして、意見書の採択となりました。

二つ前の記事にも書きましたが、議員になって1年、議会は別の国だと思うというのが本音で、それはそこだけの独特のルールがあるからという理由が大きいです。私はそのルールの全て、特になぜそのルールがあるのか?についてを理解したわけではありませんが、「なるほどこういう仕組みで動いているんだ、、」という気づきの継続で、あっという間に1年が過ぎました。

そこで今、何が起きているのか?というと、その結果として、情報のギャップが生じているんですよね。

この立場に身を置いての1年、私自身の中で気づいた事や体験した事が蓄積されていってます。それはいいとか悪いとかでなく事実として、議員という立ち位置でしか見えない風景がある。ただそれを全て言葉にする事は物理的にできません。また同じ議員でも、女性という立ち位置やこの年代だから見える事もありますし。

それで、今の自分がいちばん辛いと思うのが、自分が体験した、見えている風景を、議会改革に関心のある方に説明しようとした際に、私が「起きている現実」として説明をしたにしても「それを悪いこととされる」という事が時々起きてしまっている点です。

これ宗教の教義の対立みたいだなと思う事もあります。

例えば「とある国では宗教でバナナを食べません。絶対に食べないです」って伝えた際に「こんな美味しいバナナを食べないなんて、バカじゃないの?おかしいに決まっている」というリアクションをされるようなものです。いや、バナナがなくてもパイナップルを食べているから、そこの国の人はまあまあやっているし、バカではなくてただ食べないだけなんだけど、、と返事をしても「お前はもう日本人をやめたのか?」とかで、話が先に進まない的な。

私はこれはあまり役に立たない会話だなと思っているし、私個人的には非常に虚しくなる会話だと感じています。「バナナを食べていないんです」って事をただ「あ、そうなんだ」って聞いてくれる人が数少ないという点を、実はとっても危惧しています。実際の現地の情報を聞く事なしに、どうやって攻略の作戦を立てるつもりなのか?それで何をしようとしているのか?どんな未来を創ろうとしているのかが私にはわからないからです。ただし「そんななら自分が立候補してやる」って気持ちをその方から感じた場合は全く別です。是非そうして欲しいので大歓迎します。もちろん、自分の説明力不足が一番の原因で、この点は200パーセント認知し、何かもっとなんとかしようともがいています。が、それはそれとして、でも何かこれじゃ生産的な気がしなくて、どうしたらいいものか?と、かなり悶々としてます。現在進行形で。

まとめます

今、私が見えている世界を、議員でない住民の方々の智慧や武器(=必要な情報)としたい。そのために今何をどうしたらいいのか?

今日の「わからないと気づけた時には突破口がある」という話は、私が悶々としていた事、問いへヒントだと思っています。

だから、どうか私が異なる世界の説明をした時に、否定から入るのではなく、認知にとどめていただいた上で対話をしていただきたい。それができたら創造的なアイデアが出てくるのではないかと思っています。

対話のワークショップでは、決まり事(対話のグランドルールと呼ぶことが多いです)として、「どんな意見も否定しない」ということがあります。これはどちらか一方がする事ではなく、対話をすると決めた全員がやる事ではないかと思うのです。だからこそ創造的な場にすることができるのだと。



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