代案無き「反対」は「意見」とはいえないよ FirE♯ 676
言論の自由があり基本的には言いたいことを言っていい世界です。
言いたいことを言えばいいじゃんっていう社会です。
言ってもいいというだけで、言われた通りにするとは言ってないという社会です。
自らの言いたいことを意見として主張したいのであれば、何かに「反対」するのであれば、「じゃあどうするんだ」という代案も主張すべきです。
■ 代案無き反対は意見ではない
私がこのように感じる場面は大きく二つあります。
野党の与党への政策批判の時と、反対デモの様子を見た時です。
政治家のやり合いはある種必要な儀式のようなもので、反対することが仕事である野党は仕事をしていると言ってもいいでしょう。
私がどうしても納得できないのは、「反対デモ」です。
■ 原発再稼働反対デモ
電気料金の高騰のニュースとセットで、報道されるが原発再稼働の反対デモです。
電気料金の高騰から、暖房冷房を我慢して節約しそれでも生活の苦しい家庭は多くあります。
このような家庭は節約という努力を行なった上で、もうこれ以上削るところがないということで、国へ対策をしてほしいと意見を述べています。
やるだけやった上の主張は意見と認められて然りです。
そして、このような努力の裏側では原発再稼働反対というプラカードを掲げて声を上げる人々がいるのです。
震災で大きな被害を出したことは事実です。
帰る土地を失った人も多くいた。
その原因が原発にあったのは事実です。
その後に、原発は全て危険であるとし停止させることは、正しいとは思えないのです。
原発再稼働してほしくないのはわかったが、その分の電力をどうするのか。
その部分の主張がしっかりとあるのであれば意見として訴えて良いでしょう。
さらに、これを訴える人も電気代を節約する家庭の如く電力の節約を絶対にやっておかなくてはなりません。
原発再稼働反対者として、それをやっていないのは活動と矛盾していますからね。
そこまでやっているならいくらでも訴えれば良いし、伝わるでしょう。
■ ほんまか?それ
デモの様子を見ていると、どうしても感じてしまうことがあります。
「ほんまか?それ。」
彼らが本気で、心底訴えているように見えないし、聞こえないのです。
掛け声に合わせて「音」を発しているようにしか見えない。
表情と声に活力がないと感じてしまう。
本気のデモは、問題にもなったトランプ支持者の国会議事堂襲撃のような爆発的活力があるものです。
実際にはあの行為は暴動とも言える犯罪行為です。参加者の中にはお祭り気分の者もいたでしょう。
しかし、その熱量は「原発再稼働反対」の参加者が見習うべきものであるとも言えます。
■ 警察の先導
デモ行進で公道を使用する際には警察の許可が必要です。
それは決まっていることであり、従わざるを得ない。
この時点で、国はデモを認めつつも、その効果を弱めている言っていいでしょう。
警察の先導がある時点で、デモ行進は周りから見れば、「ガス抜き」に見えるのです。
「はい、安全にデモしましょうね(笑)」
という印象。
何を主張しようが、国の規制の中で民が大声を出しているだけで、なんの脅威でもない感じ。
そして、デモしている本人は、自らの意見を主張した気分になる。
それを公道でみんなに見られている気分になる。
承認欲求が満たされ、「やったった!」と大満足。
彼らの目的は達成されるのです。
社会を変える気などないのです。
「私たちを見て!!こんなにも主張できるんやでぇ〜」と訴えているのです。
原発再稼働反対者に、言っておきたいが、再稼働された際には、ソラーパネルを設置して自家発電した電力しか使わないくらいに徹底して、原子力により作られた可能性のある電気を使わないで欲しい。
それくらいやる覚悟があるなら、デモをすればいいと思うのです。