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年明けのめでたさは、何も無い

新年の挨拶がとても苦手でした

もう60年も生きてきて、新年の挨拶がとても苦手でした。
「新年明けましておめでとうございます」といったり、年賀状に書くのがとても嫌な気持ちをもっていました。
たまたま私の身近にで【不幸】がなくても、日本や世界では何かしら【不幸な出来事】が発生しているから。

「台風が直撃しなくてよかったね」と話すのも嫌です。
「それた先の地域では台風が被害を巻き起こしているのに・・・」と思っているからです。

特に今年は、大地震や大事故が1日から発生して、より強くそれを思い直しています。

ワプニック博士のQ&A選集から引用

「質問113 天災を目の前にして」
今回の大地震や大事故を知って、私はどうするのが奇跡講座の
教えになるのか? と、書籍を開いてみました。

私たちが無条件の愛によってあらゆる人を受け入れることができるようになる前に、まず自分自身をはじめとするすべての人々を、慈しみをもって眺めることができるようになることを学ぶ必要があります。

「質問113 天災を目の前にして」

このように返答されているのは、『誰もが間違った選択の結果この世に誕生している』という大前提があります。
つまり『神の愛を裏切って、その罪悪感に耐えきれずに自我がこの世を反映し、そこに誕生した。と信念を持っている』という前提です。

私は九州在住で地震や事故の現場からは離れているから、加害者とは思えません。
ところが、罹災者への気遣いや支援を行動するときの、気持ちがどうかと問われているのです。

具体的な行為について奇跡講座はなにも言及していません。
しかし、罹災者を被害者として見て、それの加害者を見続ける自我の観点では、私は分離の観念を強調してしまいます。

地震なら、住宅施工が悪かったとか救助が悪かったとか理由をつけて加害者を作り出すことが出来ます。
事故ならば管制官や自衛隊員などのミスがあるから加害者だと、言うこともできるでしょう。

そんな観点に立ってしまうと、私がこの世を裁く審判のようになってしまう。
それは神に成り代わって、人々を裁いているのと同じこと。

そうではなくて、私もいまの環境に生きていると信じている間違った選択をし続けているのだ。
彼ら、罹災者、自衛隊員、施工者や行政なども、『間違った選択の結果』ここに生きていると信じている人である。
としっかりと私自身が腹に落ちるまで、学習することです。


私だけが幸福で彼らが不幸ではない


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