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私の一番古い記憶は、5歳頃のお墓参りのときのことです。
不意に「寂しい」という感情が身体に入り込み、身震いしたのを覚えています。その後、身体が冷えて具合が悪くなりました。
この体験は何だったのか分かりませんが、同じようなことが時折起こります。
父方の祖母は「子どもはお墓に近づくな」と言い渡し、母方の方にだけ行くことになりました。
最近知ったのですが、父方の祖母や叔母、叔父にも不思議な力があったようで、もしかしたら私もその力を継承しているのかもしれません。
これまでの人生で、おかしな体験が多々ありましたが、現実に追われてそれに構っている余裕はありませんでした。
でも、数年前から人生が転機を迎え、ふしぎな世界が主になり、さまざまなことがつながり始めました。
その中のひとつが「癒す」こと。それは、弱音を出すことから始まります。
「癒す」ことは、弱っているところに意識を向けることです。私が意識をどれだけ向けるかで、その効果も変わるとわかりました。
一緒に過ごすだけでも、離れていて想うだけでも、意識を向けることができるため、自然と癒せることがわかりました。
たとえば、同居する父は大病を患い、当初は数か月の命と診断されましたが、早くも十年近く経ちました。ご縁のあった方々にも、さまざまな難病や精神疾患を抱えている方がいますが、私の持つこのふしぎな力が役立っていると感じています。
振り返ってみると、いつでも「癒されたい」人たちが集まってきていました。
子ども時代には、捨て猫や捨て犬、怪我をした小鳥など、弱っている声を頻繁にキャッチし、犬1匹と猫4匹と共に暮らしていました。今でも、傷ついた蝶や命尽きる寸前の昆虫、迷子の猫が訪れてきます。もちろん、元気な生き物たちとも近しい関係にあります。
若い頃から、複雑な事情を抱えた人たちがよく周りに集まって来ます。
実家から逃げたくて早婚した私のアパートには、恋人にも打ち明けられない悩みを抱えた子たちがよく訪れていました。それはまるで告解室のようで、毎日のように誰かが来ては、抱えた想いを吐露し、重荷を降ろして楽になっていくのを見送るのが好きでした。
仕事で北海道の牧場に住んでいた時も、地域の独身男女が同様の用事で訪れていました。別の仕事の出張先でも同じくでした。
今でも時折、わが家に来てご飯を食べて昼寝して帰る人たちがいます。みんなそれぞれの話を持っていますが、共通するのは「弱音」を出していくということです。
これまでの経験から、私が弱い音をキャッチしやすく、出しやすいからだと思います。そして、弱音を出せる場が少ないということも感じています。
私は魂の姿で人々を捉えています。大人でも子どもでも、純粋な存在として見ることができ、そのコたちが外の現実世界でオトナの仮面をかぶって頑張っている姿を見ると、愛おしく感じます。
そしてもっと充電できる方法を増やしたいという想いが強くなっています。
この力は、特別なことではなく、元々誰もが持っている力だと思っています。昔は自然に行われていた感覚であり、日常的な行為だったと感じています。
自分自身を癒し、再生させることで100%の氣力を満たすことができます。本来の自分に還ることができれば、大切な人にもその力を施すことができます。
そして、氣力が満たされていれば、あなたがいるだけで周囲にとってのPower Spotになるのです。
「弱音のおと」は、私たちが心の奥底で抱えている感情を解放するための大切な響きです。
liranaの活動の最終目標は、ひとり一人の灯がまた、ひとり一人を灯していくということです。
その連鎖が大きな光となり、美しい景色を作り出すのを、私は視てみたいのです。