『大拙つれづれ草』 鈴木大拙 (読売新聞社)
吉田兼好ではなく鈴木大拙の「つれづれ草」。十数年前に友人に譲って以来、見かけることのなかった箱入りの古書(「禅のつれづれ」という名で再版されている)が古書店の店頭で100円で売られているのを見かけ入手したのは最近のこと。再版本が手元にあるが、これを機会に再読することにした。
「禅」なるものとの出会いのきっかけになった鈴木大拙というお方。ハタチを過ぎた頃、ビート文学の文脈から、英語で書かれたものを訳してまとめた「禅(ちくま文庫)」と遭遇した。一読こそしたものの、理解などできるわけもなく、ただ不可思議な世界との対面に興奮した記憶が朧げながらに蘇る。
ビート文学の文脈と書いたが「ジャック・ケルアック」と大拙には瞬間的な交点がある。ケルアックが「いかなるかこれ祖師西来意?」と尋ねると大拙は「あなた方は、ここに静かに坐って俳句を作り、わしは緑茶の準備をする」と答え、ケルアックの去り際には「お茶を忘れませぬように」と言ったそうだ ※。
鈴木大拙の禅は「西洋」が意識されている点で他と一線を画す。禅と老荘思想は切り離せないものであることに言及する方は多いが、大拙は「道徳経」の英訳に長いこと携わり、翻訳の難しさを身をもって経験していて、「言葉」に対する感覚が独特であるように思われる。閑話休題。「大拙つれづれ草」に話を戻す。
遺偈の様なこの本の中で大拙は、モーゼが受けた啓示 "我は在るもの (I am that I am)" はブッダ誕生時の絶叫「天上天下唯我独尊」に相当すると言い、さらに「モーゼの生まれぬ前の我」というキリストの言及まで持ち出している。特定の宗教に属していないからこその「融通無碍」な発想。「お茶を忘れませぬように」
※「大拙 禅を語る (Art Days)」より