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それでも、ネット上に言葉を放つのはなんでなのかを考察してみた
「しずかなインターネット」がとても良くて、溺愛している。
どうして「しずかなインターネット」を使うのが好きなんだろう?
noteとはなにが違うんだろう?
そんなことを少し、考えてみた。
noteと「しずかなインターネット」の違いは、プラットフォームの前提にあると思う。
noteは、自分の発信を誰かに読んでもらうことが前提となっている。それはつまり、他の人ありきのプラットフォームであるということ。自分が書いたものは、誰かに見てもらう前提で作られている場所なので、かならず誰かの目に入る。裏を返すと、他の人が書いたものも、かならず自分の目に飛び込んでくるように作られているということ。そういう意味では、ふんわりとしたSNSなのだ。
一方の「しずかなインターネット」は、"自分が書くこと" だけに特化している。もちろん、他の人に読んでもらいたいなら、それもできる。でも、他の人に読んでもらうことはかなりむずかしい。そういう仕様に、プラットフォーム自体がそもそもなっていないから。「しずかなインターネット」は、SNSではない。人とのつながりはほとんどない。自分が書いたものは、自分がリンクをシェアしていったりしない限り、他の人の目に入ることはほぼない。それはつまり、他の人が書いたものが自分の目に飛び込んでくるということも、ないということ。
画面の向こうの人ありきで「書く」noteという場所と、自分しかいない状態での「書く」に集中するためのしずかなインターネットという場所。そんな違いだろうか。
人に読ませるためではなく、自分しかいない閉ざされた空間に書いていくのなら、そもそもインターネット上に発信する必要はあるのか?という問いが出てくる。
自分のためだけに書くのなら、手書きのノートでもいいと思うんだよね。タイピング派なら、パソコンやスマホのメモでもいい。それでもこうやってインターネット上にアップしたくなるのって、なんでなんだろうなぁ。そこのところを、よく考えている。
個人的な感覚なのだけれど。
ノートとか、自分だけしか絶対に見られない、自分の手元にあるところに書くっていう行為って、まだ思考が自分から離れていってないんだよね。"自分" っていう空間(スペース)の中に、思考を言語化して置いてみただけっていうか。だから、思考は結局、まだ "自分" のなかにふわふわと浮いている。流れていかない。
でも、こうやってインターネット上に放つってことは、自分っていう空間...っていうかエネルギーフィールド?から外に出している。つまり、自分から放たれた思考が、"自分" っていう閉ざされた空間のなかから、外に飛び出して、放たれていく。そうすると、インターネットっていうものは、"自分" っていう閉ざされた空間ではないし、エネルギー的にも、自分のエネルギーのなかにあるものではないから、そこに放たれていった思考や言葉は、自分のものじゃなくなる。その言葉や思考を、インターネットという "自分" と切り離されたエネルギーフィールドに放つことで、"自分" のなかから排出していくことができる。言い換えると、手放しとか浄化になる、みたいな感じじゃないだろうか?
誰かに自分の発信を読んでもらいたい。そこでのエネルギーの交流が起こってほしいのなら、noteが圧倒的に場所として適切だと思う。けれども、ただ "自分" というエネルギーフィールドから、思考や言葉を離して、距離をとったり、手放したりするために「書く」という行為をおこないたいときには「しずかなインターネット」のような場所がちょうどいいのかもしれない。
そんなようなことを、考えてみたりしました。
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