子どもを育てるということは...
さあ、今日はなにを書こう?
そう思いながら、真っ白なnoteの画面と向き合う。
3秒前まで、パソコンの前であぐらをかいて座っていたわたしの脚の上で三角座りをしていた娘は、隣で崖の上のポニョを読んでいる。読み上げる技術が、本当に向上したなと思う。公文の先生をしている友人がこの前、家に遊びに来てくれたときに、マンガを読み上げている娘を見て、「これ、小学校33、4年生の読み方やな」と言っていた。本好きな子に育ってくれて、嬉しい。
崖の上のポニョといえば、はじめて観たときにはなんの話なのかがさっぱりわからなかった。もののけ姫や風の谷のナウシカなどで育ったわたしにとって、崖の上のポニョは、いきなりジブリ映画の絵の形態がおおきく変わってしまったことの衝撃がとてもおおきい作品だった。
主人公の宗介のお母さんが「不思議なことがたくさん起こってるけど、気にしちゃだめ。後からきっと全部わかるから」みたいなことを言っていたときに、一緒に観ていた友達と「いや、気にするやろ!おかしいこと起こりすぎやろ!適応能力がありすぎるにも程があるやろ!!」と全力で突っ込んだことだけが、わたしの記憶に刻まれている。
あれは確か、小学校の高学年か、中学生くらいのときだっただろうか。
それから数十年の月日が経って、あらためて「読んで」と娘にねだられて崖の上のポニョを読んでみた。自分が大人になり、親になって、あらためて崖の上のポニョに向き合ってみると、感じ方が180度変わっているのが、おもしろかった。
当時は、悪者にしか思えず、謎の存在だったポニョのお父さん、フジモトも、実はとっても娘想いのやさしい父親だったし。いろんな不思議な出来事も、子どもたちにしか見えていない現象で、大人たちにはきっと、台風と津波、そして浸水にしか見えていなかったのだろうこととか。1番の驚きは、ポニョの話が「ジブリ版・人魚姫」だったことだろうか。
そのときに自分がいる人生ステージや、蓄積された経験や知識、そして年齢によって、同じものに対しての感じ方がおおきく異なっていることに、子どもを育てはじめて、ひしひしと感じる。
それは、自分にとっては心地のいい発見だったりする。
子どもが見ている世界、認識・知覚している世界と、大人が見て、認識・知覚している世界は、根本的にちがっている。同じものを見ていても、そこから感じること、理解することは、全然ちがっている。
「同じものを見ていても、実は見えているものがちがっているのかもしれない」という前提を自分のなかに持っておくことは、子育てにおいて、とても大切なことだと思う。
大人にとってはワガママにしか感じない子どもの癇癪や駄々っ子も、その子にしたら、感情の抑制が効かなくて、自分ではどうしようもできないことなのかもしれないし。そもそも大人になるということは、世界のいろんな刺激に慣れていって、ある意味、感覚が鈍くなっていくことなのだと思う。
幼少期のときには、気持ちわるすぎて必ず車酔いしてしまっていたバスの布製のシートの匂いも。刺激が強すぎて苦手だったオレンジやキウイの酸っぱい味も。この世の終わりかのように痛かった、擦りむいた膝小僧の痛みも。
大人になったら、認識することすらしなくなってしまった。気になることもなくなって。少しの不快感があったとしても、それが自分にとって耐えられなくて泣き叫んでしまうほどのストレスになることは、もうない。
それは、「社会への適応」という言葉を使うのであれば、とても大切なことだけれど。ある意味、わたしたちは大人になることで、不快を感じる感覚が鈍くなり、我慢したり、耐えたりすることに、あまりにも慣れていってしまっているということなのかもしれない。
子どもの、大人にとっては "敏感すぎる" 感受性は、自分が幼少期だった頃には、確かに持っていたもので。今も、自分のなかに、鈍くなってしまったとしても、ちゃんとある感覚。
だから、子どもの言動を理解できないと感じるとき。わたしは自分の幼少期を思い出すようにしている。すると「ああ、そんなこともあったな」と思い出せて、子どもに寄り添えるようになったりする。
この感覚は、子育てだけじゃなくて、どんな人間関係においても大切なことなんじゃないかなって思う。
なんてことを、手が動くままにつらつらと書いていたら、ポニョに飽きはじめた娘が「ママー」と言ってきた。そろそろ、時間かな。
子どもを育てるということは、自分が子どもだったときの世界の見方や感じ方を思い出していくということ。素敵なギフトだなぁと思う。
今日も、あなたと一緒に過ごせたこのしあわせな1日を、噛み締めて。
もうすっかりおねむなので、今日は20時過ぎには寝てしまいそうです。寝かしつけする前に、自分が寝かしつけされてしまうフラグがビンビンに立っている。そんな日常も、しあわせだなぁと感じられる。しあわせと感じられることが、しあわせ。
そんな、初秋の夜のこと。
今日も、お疲れさまでした。
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