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BACK TO THE KAWAGOE FESTIVAL.

先週末は両日取材が入っていたのだけれど、日曜日の件がキャンセルになり、急に時間が空いた。そこで、先日出席した同窓会で幼馴染から誘われていた埼玉県の「川越祭り」へ行ってきた。
川越は、ぼくが小学校5年から高校卒業まで過ごした街だ。

川越に越すまで住んでいたのは東京都練馬区にあった小さな商店街。それはそれで楽しかったが、城下町の川越に移ったぼくは、とても興奮した。なぜなら歴史や古いものが大好きだったから。
毎日50分かけて通学した道は、城下町らしく曲がりくねって、徳川家康のブレインだった天海が創建の喜多院と毎月骨董市が立つ成田山別院の境内を通っていたのだ。喜多院には、江戸城から移築した「家光誕生の間」と「春日局の部屋」があり、境内の南には、家康が没した後、日光の東照宮へ遺骨を運ぶ途中、しばらく保管していたという仙波東照宮もある。
学校の校門から東へ向かえば、すぐに川越城の本丸御殿や富士見櫓跡の小山、童謡「通りゃんせ」が生まれた三芳神社などがあり、西へ行けば、江戸と川越を結ぶ川越街道の旧街道沿いに蔵造りの街が並んでいる。
北へ行けば、左甚五郎の彫り物が見事な町の総鎮守、氷川神社がある。
江戸へ舟で物資を運んだ新河岸川は、コイやフナ、雷魚釣りを楽しむ遊び場で、田んぼや池ではザリガニやヌマエビ、カエル、バッタなどを獲った。

そして1年のクライマックスが、町中を上げてお祭り騒ぎをする「川越祭り」だった。
祭りの花形は各町から出る山車だ。
これに、お囃子や踊りで乗る子は、祭りの当日は学校を休んでよかった。
乗らない子も祭りの日は半ドン。
みな、小遣いを握りしめて人ごみの中へ飛び込んでいった。

山車と山車が出会うと舞台が回転して、キツネやオカメ、タヌキやオギナなどの面を被った踊り子が対峙して競り踊る。山車と山車の間には氏子らが駆け寄り、提灯を掲げ、声を上げながら押し合いへし合いする「ひっかわせ」は、いつ見ても手に汗握った。

自分の住んでいた町には山車がなく、山車のある町に住んでいる子がこの日ばかりはうらやましかった。

川越祭りの起源は、慶安元年(1648)。川越藩のお殿様が氷川神社に神輿や獅子頭などを寄進したのがはじまりだ。お殿様が祭礼を奨励したので、町民たちも一緒に練り歩くようになり、元禄11年(1698)に踊り屋台を引くようになった。

そのお手本だったのが、江戸の「天下祭」だ。
江戸時代以来、続いている神田祭と山王祭のことだが、現在、この二つの祭りで山車は引かれていない。

幼馴染によると「明治に入って政府が<徳川の慣習など消してしまえ>と山車を神輿に変えたんだよ。だから、東京の祭りはどこも神輿になってるんだ」と言う。

そんな物知りな幼馴染がいる西小仙波町には山車がある。

昼過ぎから行ってみると、彼は「何故もっと早く来ない!?」と手ぐすね引いて待っていて、町オリジナルの手ぬぐいを分けてくれた。そして、その手拭いを首に巻いて、山車を引かせてくれるという。

人ごみでごった返す旧街道のド真ん中で頭領が指示を出し、木が鳴るといっせいに太い綱を引き、山車が動き出す。
どこを見ても人・人・人なのに、山車の動きを妨げる者はない。
向こうから他の町の山車がやってくれば、「ひっかわせ」が始まる。
それを綱の中から眺める。

思いがけず、小学5年生のころからの夢が叶った。
大人になるのも悪くないな。

幼馴染よ、西小仙波町のみなさん、ありがとう!


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