日本最大の土人形コレクションщ( ꒪д꒪ )щ
8月下旬に羽黒山荒澤寺正善院の行「秋の峯入り」に参加した後、2週間後に釣りの取材で再び庄内へ。幼い頃に釣りを覚えた日向川を遡行しながら釣りをするというとても充実した取材だった。
その後、酒田に残り、ちょうど正善院の黄金堂で護摩供があったので参加することにした。
この黄金堂は、神仏習合時代、羽黒山で里宮的な存在だった寺院で、三十三体の観音像が祀られている。それだけでもど迫力ある場所なのだが、廃仏毀釈で打ち捨てられることになった、羽黒山の各所で祀られていた神仏を避難させた場所でもあり、国宝五重塔のご本尊や随神門(当時の仁王門)に祀られていた仁王像、羽黒山神社の三神合祭殿(当時の羽黒山頂寂光寺金堂)や月山への参道沿いに祀られていた神仏か回廊を埋め尽くし、まるで立体曼荼羅のようになっている。その空間にいるだけで、独特の世界観を見ることができる。
秋の護摩供には、山伏の他に地元の信者さんが参加していた。「秋の峯入り」は、世間から隔絶された世界で行に励むので、こうした信者さんを間近に目にすることはない。でも、黄金堂の同じ空間で護摩の火を囲み、一緒に経を上げていると、修験道が今も世間とつながっていることを実感する。
誰のために拝むのか。
何のために経を唱えるのか。
その顔が見えるのと見えないのでは、やはり心の入り方が違う。
入口は、己と山との関わり方だったが、わずかだけれど行を重ねる内に、修験道のさまざまな面が見えてくる。それが興味深い。
そして、そんな気持ちになっている自分が妙に思えた。
と言ったら先輩に怒られるかな(汗)
その日は、正善院に泊めていただき、翌日、内部が公開されている羽黒山の五重塔を拝観した。ここは国宝であると同時に「峯入り」でも重要な場所で、子どもの頃から見てきたところだが、中を見るのは初めて。
細い材を組み合わせてとてつもない荷重を分散させながら支える匠の技をマジマジと見ると、唸るしかない。
そして、骨のようにも見える木肌を剥き出しにした姿は、やはりめちゃくちゃ格好いい。
五重塔から随神門に戻り、いでは記念館で資料を購入すると、後は神奈川の自宅へ帰るだけだったが、夜行バスを予約していたので、日中の時間が丸々空いた。
そこで、今年の峯入りで一緒になった三浦友加さんのクルマに乗っけてもらい、鶴岡市内の松ヶ岡へ。
三浦さんは、吉本で芸人さんをしていた人で、現在は、故郷の鶴岡を拠点にして、料理の腕前を振るい、毎週木曜に鶴岡、金曜に新庄で「ミウラのユカレー」なる薬膳カレーの店を出している。加えて、伝統芸能や民芸品をコラボさせる企画や各種イベントのMCをしたりもしていて、芸人時代に養ったバイタリティで「自分にしかできない生業」を作っている。その姿は自由で、そのスタンスを見つけるまでの話もとても興味深いのだけれど、それはまた別の機会に。
その三浦さんとベクトルがドンピシャ重なったのが、土人形だ。
母が生まれた酒田には、江戸時代、北前船で伝わった「鵜渡川原人形」という土人形がある。粘土を型にはめて人形の形にし、素焼きにして膠で溶いた白い顔料を塗って下地を整え、更に膠で溶いたさまざまな顔料で色付けしたもので、素朴な味わいがって子どもの頃から大好きだった。うちの仏壇には、鵜渡川原人形の恵比寿様がある。
一方、鶴岡にも同じ製法の土人形が残っていて、こちらは「瓦人形」と呼ばれている。職人さんが最後のひとりになってしまっているそうで、三浦さんは、その最後の職人さんに「瓦人形」の作り方を指南してもらっているのだ。
その話で盛り上がっていると、
「羽黒に日本最大の土人形博物館があるんですよ」
と教えられ、居ても立ってもおれず、ご案内いただけるようお願いしたのだ。
その場所は、松ケ丘開墾場にある。
ここは、旧庄内藩の武士3000人が刀を鍬に持ち替え、明治時代に開墾して作った養蚕工場だ。
現在は「サムライシルク」として日本遺産に登録されている。
その一番蚕室(上の写真)の2階に、鶴岡出身で土人形収集家の田中正佐さんと兄で土鈴収集家の田中正臣さんが寄贈した全国の郷土玩具がずらりと並んでいるのだ。
その点数は凄まじいもので、正確な数を忘れたが数千点に及ぶと思われる。
唸りながらガラスケースに張り付いていると
「ここに友達を連れてきても、みんなすぐに帰りたがるんです。こんなに食いついた人はじめてです」
と笑われた。
笑われてもいい。その愛らしい姿を見ていると、こちらもほっこりしてしまう。そして、作り手やその人形を継承してきた土地の人々が持つ美意識や価値観が滲みでていて本当に面白い。
三浦さんは、自作の瓦人形を持参していた。それを持ってもらって記念撮影。
三浦さん、ありがとうございました。
改めて、じっくり見に行こう。
ミウラのユカレーも食べたいな。
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