【大阪】お笑いインディーズライブの起源を思い返してみた。
1990年代、インディーズライブは存在したのか?
僕の記憶をたぐり寄せて、1990年代大阪のお笑い界隈の話を書いてみようと思いますが、僕の記憶のみなので実際はどうだったのか、その検証も難しいのでひょっとしたら事実と異なる認識になってるかも知れませんが、今に繋がっている、大阪お笑いインディーズライブの起源はどこにあったのか、記憶が薄れてしまう前に書き記したいと思います。
お笑い界隈に”インディーズ”という言葉はなかった時代。
僕がお笑い芸人として活動していたのは1993年頃から2000年頃までで、その頃はお笑い界隈ではインディーズライブという呼び名がなかったし、インディーズ芸人という呼び名も無かったと記憶しています。
”インディーズ”という言葉は、主に音楽関係で使われていたのか、当時は「有頂天」や「筋肉少女帯」が属していたインディーズレーベルの「ナゴムレコード」が有名かつ人気で、何者にも囚われることなく、前衛的な音楽とファッションを武器に「いつしかメジャーに乗り込むんだ!」というストーリーがいつしかお笑いにも持ち込まれたんだと思います。
1990年代の大阪は吉本興業、松竹芸能以外にも小さな事務所がいくつも存在していて、芸人を志す者はどこかの事務所に所属していた訳で、その各事務所ライブが主な活動拠点となり、その事務所ライブ以外に芸人自らライブを主催するなんて事は頭に無かったでしたね。
吉本興業は「心斎橋筋2丁目劇場」「うめだ花月」で連日若手のライブを公演しておりましたが、その他の事務所は月に2~3回程度の事務所ライブのみで、まぁそれがスタンダードではあったので特に少ないとか不満もなく過ごしておりました。
ですがある日松竹芸能の芸人さんと話していると「吉本は毎日舞台がある。俺たちは月に数回、このままだと吉本芸人との差が開く一方だ!」と言っていたのが凄く印象的で、それが理由か分からないですが、松竹芸能の芸人さん有志で心斎橋のアメリカ村三角公園でストリートライブを開催するようになっていました。
何度か見に行きましたが「よゐこ」さん「ますだおかだ」さんを中心に5~6組でアメリカ村にいる若い人を呼び込みで集め、確か30~50人は集まってたと思いますが、その人たちの前でネタをやって、それを日に5回ほど繰り返すという、今ある呼び込み寄席の形式で、そこで得た新規のファンを月一開催の「KITEMITE倶楽部」という松竹芸能の若手ライブに誘導していたのか、即完するという松竹芸能の人気ライブになっていました。
ストリートライブはインディーズライブの代わりだったか。
僕も吉本の「幹てつや」さんにお誘い頂いて、毎週月曜日、神戸三宮駅の前の広場でストリートライブをやっていました。
「幹てつや」さんは桂三枝師匠(現・桂文枝)のお弟子さんで、2丁目劇場のオーディションを受けていたか記憶がないですが、ネタやる場所が無いって事で、僕以外にも数組集め、始めたストリートライブでした。
ここではマイクとアンプを持ち込んで、呼び込みをして20人くらい人が集まったらスタートして5組くらいで30分を×2回ほどしてラーメン食べて帰るというのが毎週月曜の僕の中での恒例行事でした。
時にはゲストも来て、笑福亭鶴笑師匠が来て紙芝居落語で道行く人を爆笑させていたのも記憶にあります。
このストリートライブは1995年の阪神大震災をきっかけに無くなってしまいましたが、僕はその後も何組かで大阪城公園でやったりしていました。
NON STYLEさんも結成当時は三宮や梅田の路上で漫才をやって腕を磨き、後に2丁目劇場のオーディションを突破するという逸話もあるくらい、当時はインディーズライブの代替にストリートライブがなっていたのかも知れませんね。
この背景には毎週末に大阪城公園でアマチュアバンドが何組も集まってストリートライブを開催していて、そこから「シャ乱Q」さんがメジャーデビューして人気を博していったというサクセスストーリーが、お笑いにも影響していたのかも知れません。
2丁目劇場のオーディションを受けている芸人さんはどうしてたのか?
前述の通り、連日「2丁目劇場」や「うめだ花月」で吉本の若手がライブを開催していましたが、でもそれはオーディションを突破してレギュラーになった人たちのみ。
オーディションになかなか通過しない若手はどう過ごしていたのか?
ごめんなさい、その記憶が全く無いのです。(知っている人いたら情報ください)
NON STYLEさんのようにストリートライブで腕を磨いたのか、公園で練習したのをオーディションにかけていたのか。少なくとも1990年代には若手芸人が腕を磨くためにライブを開催しているという情報は僕のとこには一切入ってこなかったです。
アマチュア時代の「ライセンス」さん。
ある日河内長野市でアマチュアも参加可のバトルライブを開催するって事で、アマチュアだけだと心許ないって事で一応プロ扱いだった僕たちにもお声がかかって参加したのですが、楽屋に入るとやけに華のある存在感のある二人が座っておりました。この二人が後の「ライセンス」さんでした。
話をすると「先日2丁目劇場のオーディション突破しました。来月から2丁目メンバーです!」と言っており、NSCには行かず、アマチュアでオーディションを受けていたようです。
当時2丁目劇場のオーディションは規定の時間が過ぎれば、合格音か不合格音が鳴るのですが、オーディション受けた時の「ライセンス」さんは笑いを取りすぎて規定の時間が過ぎても音が鳴らず7分やり続けたんです、なんて言ってました。自慢なんですが、全く嫌味に聞こえなかったのが印象的で、この時には既に売れる人の要素を兼ね備えていたのだと思います。
もちろんこのイベントでは、「ライセンス」さんがダントツの1位で、その後オールザッツ漫才で活躍し、気がつけば「ガキの使い」でダウンタウンさんと共演していて一気に遠い存在になったのですが、この時はこういったアマチュアでも出れるライブや大会がないか探していると言っていたので、今のように誰でも出れるライブがかなり少なかったのでしょうね。
恐らくこの当時の吉本目指す芸人さんは、数少ない機会を探したり前述のストリートライブ、あるいは練習のみでネタを磨き、オーディションに挑んでいたと思われます。後に大阪お笑いインディーズライブ聖地とされる「ワッハ上方7階レッスンルーム」や「OCAT(難波市民学習センター)」で日夜ライブが開催されるようになるのは2000年代に入ってからで、爆発的に若手芸人が急増する前夜であった時期だったのでしょう。
インディーズライブの種。
この頃、僕も外部のライブに出たことは何度かあります。
「笑の会」という上岡龍太郎さんが、漫才師と漫才作家を育成するために始めた勉強会で、当時は上岡さんの弟子であった「江本龍彦」さんという方が主催されており、出さしてもらった事があります。
上岡龍太郎さんが出ている頃は大盛況だったみたいですが、この頃は下火になってたのか、僕たち含めて出演者は5組程度で、作家の参加はゼロ。
お客さんも5人くらいだった記憶があります。確か入場料は300円だったか。
このイベントの情報をどこで知ったかと言えば、当時の情報雑誌、「ぴあ」とか「Lマガジン」吉本は「マンスリーよしもと」という吉本の全公演が掲載されている雑誌にこの類の情報が掲載されており、毎月掲載されている謎の「笑の会」に問い合わせ先として掲載されている番号に電話して、出させてくださいと、お願いしたのです。
面倒な時代ですね。
今のようにSNSで検索してDMしてって情報を得るのも、簡単だけど、当時は調べるのも連絡するのもめちゃくちゃ手間がかかりました。
ひとまず出演させて頂き、我々若手が5分でネタを終えると、主催の江本さんが驚いて、「最低15分するのが芸人と言うものだ。あと君のようなタイプは売れないから辞めなさい」と、売れてない江本さんから言われたんだけど不思議と嫌な感じがなくて微笑ましくその言葉を受け取り、この頃は二言目には「辞めろ」という大人がたくさん居て、前時代のお笑い界の残り香を味わえた最後の時期かも知れません。
もう一つ1998年頃だったか、どこでどう知り合ったか記憶にないのですが、Gさんという吉本の芸人さん、この方はどなたかのお弟子さんでした。
吉本の仕組みがよく分かってませんでしたが、前述の「幹てつや」さんなどもそうで、劇場のオーディションを突破しなければ吉本所属と認めないというルールでしたが、お弟子さんは、そのルールがなく吉本所属となっていたのだと思います。
吉本所属だが、師匠がらみの仕事以外に舞台を用意してもらえる訳でなく、たまにテレビのオーディションや賞レースの予選は参加出来たみたいですが、基本は独自の活動で世に出るために頑張らねばならないという、なので弟子出身の芸人さんも2丁目劇場のオーディション受けてたと思います。
突破すれば良いですが、突破できないが、吉本所属芸人であるという微妙な立ち位置にいた芸人さんは当時多かったですね。テレビのオーディションを通過するかNHKやABCの賞レースで結果を残さねばという環境だったと思います。
こういった状況にいた「Gさん」にお誘い頂いて「僕の自主ライブにゲストで出てくれない?」と言われて出たのが、Gさん主催ライブ。吉本所属だが吉本は一切関知してませんでした。
100席ほどの吹田のメイシアターで開催、Gさん、僕と今も高知で活動されている「土佐かつお」さんが出演者。お客さんは10人程度だったか。
恐らくこのライブが僕の記憶に残る若手芸人主催ライブの最古の情報だと思います。
これは紛れもない「インディーズライブ」であるけど「自主ライブ」と表現してました。
こういったライブを開催する芸人さんは事務所から相手されてなくて、行き場もなくてどことなく哀愁漂い、「ここから這い上がるぞ!」という前向きなイメージもなくて、あまり良い印象で捉えてなかったのですが、この数年後には出番のない若手芸人が、実力をつけるために日夜インディーズライブでしのぎを削る熱い状況になるとは思いもしませんでした。
僕が出演させていただいた、これらのライブが「インディーズライブ」の種になっていたのでしょうね。
補足)上記「Lマガジン」の内容は2004年頃のもので、この頃にはインディーズライブはかなり充実してきておりますが、スペースの都合か全てのライブを掲載することは出来なかったようです。
インディーズ芸人という言葉を初めて聞いた日
僕がお笑いを辞める前の2000年頃、ある仕事で大川興業の大川総裁とご一緒することがあり、自己紹介したら「何だ!君たちはインディーズ芸人か!」と言われ、この時に初めてお笑い関係で「インディーズ」という言葉を聞いたのでした。
ただ当時は「インディーズ」が何を指すのかイマイチ理解しておらず、無所属の芸人のことを指すのか、売れてない芸人を指すのか、前衛的でアングラな笑いをやっている芸人を指すのか分からず「はい!」とだけ答えました。
大川興業さんは当時「江頭2:50」さんのホモコンビ(という設定だったと思う)「男同志」さんや「松本ハウス」さん、おねえっぽいコンビ「プリオ」さんが所属されていたこともあり、また「ナゴムレコード」の前衛的なミュージシャン達の事もあり、普遍的でない芸人さんの事を「インディーズ芸人」と呼ぶんだというのが、その時の何となくの印象でしたが定義は良く分からないままでした。
インディーズライブという言葉を初めて聞いた日
2000年頃、僕はもうお笑いを続けていく気力がなかったので、適当にフラフラと過ごしていたのですが、ある日後輩のコンビが「週刊フレッシュサラダ」というタイトルのライブを毎週金曜日に阿倍野の会議室かどこかで開催するという話を聞きました。
「僕たちインディーズライブ開催するんです!」と言っていて、この日に初めて「インディーズライブ」という言葉を耳にしました。
その後輩と、仲の良い様々な事務所の芸人さん、学生さんが集って毎週ライブを開催するという事で、その類のライブに良い印象がなかった僕は、そんなのやって何になるねん、と思ってました。
書籍でいうと出版社が絡んでいない自費出版のようなもので、仲良しでライブしてその先に何があるんだと思いながら、もう辞めるつもりだったので真剣にその話を聞いてはいませんでした。
でもそのライブが、後のインディーズライブの原型になっていたのは間違いなく、大阪お笑いインディーズライブの起源はここにあったのだろうと思います。
と言っても僕の記憶の中ではです。
もう既にどこかで開催してたかも知れませんが、この頃を境にいわゆる芸人さん、作家さん主催の小さなライブが増えていったのは事実です。
インディーズライブ盛況!
2001年末に僕はお笑いを辞め、そこから東京でサラリーマン生活を3年ほどするのですが、東京では自宅にネット環境もなく、大阪のお笑いの情報が全く入ってきませんし、調べようともしませんでした。
M-1も始まってましたが、興味が沸かず、「中川家」さんが優勝してダウンタウン松本さんが審査員をし、「麒麟」さんが話題になってる程度の情報しか得ていませんでした。
3年の月日を経て、2004年、大阪に戻ってくるのですが、いわゆる「インディーズライブ」が大盛況で、ワッハ上方7階レッスンルームや同ビル4階にあった「上方亭」、「難波市民学習センター」など連日様々な場所で様々なライブが開催されていて、手垢のついた言葉ですが「浦島太郎状態」になっておりました。
「笑い飯」さん「千鳥」さんが主催していた「魚群」というタイトルのライブもレッスンルームで開催していましたし、前述の情報誌やワッハ上方の案内にライブ名と出演者が記載されていて、その問い合わせ先が携帯番号ならインディーズライブだったという判別法もありました。笑
僕が大阪にいない数年間にこれだけライブが増え、その理由を探るとこれらのライブのほとんどが、NSC卒業後、あるいは一般の芸人さんが吉本の劇場オーディションを勝ち抜くために経験を積むライブであることが分かりました。
今も当時も大阪の芸人数の95%が吉本、あるいは吉本を目指しているという大阪独特の背景ももちろんあります。
当時はNSCに通わずとも、吉本の劇場オーディションを受けれた時代です。
今と違い、NSCを卒業しても劇場メンバーにならないと吉本所属になれないという事もあり、大阪では吉本以外の事務所に所属している芸人さんを除き、全てが吉本予備軍であったのですね。
家でぼーっとしていたら、売れている芸人や劇場メンバーになって連日ライブがある人たちと差が開く一方だ。
今は認められてないかも知れないが、認められる日が来るまで徹底的に力を付けて見返してやるんだという、東京に行く前の「インディーズライブ」に対するネガティブなイメージとは真逆の熱い状況になっていました。
東京の事は分からないけど、大阪のお笑いインディーズシーンは、吉本の劇場入りを目指す芸人さんを中心に発展してきたのが事実です。
世に出た芸人さんが下積み時代にそれらのライブで経験と力を付けてたのは100%間違いありません。その重要さも当の芸人さんは分かっているでしょう。
今、大阪吉本はほとんど舞台の踏めない若手が山ほどいて、その上でこの類のライブへの出演を禁止しています。
もちろん企業としての建付けもあるのでしょう。
いつかこの事については、詳しくここで書きたいと思いますが、下積み時代「インディーズライブが必要なかった」という芸人さんがいるならお話聞いてみたい。多分いないと思います。ごくごく一部の天才を除き。
今あるような形のインディーズライブは2000年頃を境に発展してきたのでしょうが、前述の「笑の会」を考えると、競争である芸人の世界においては、もっと前からその重要性を認識され開催されていたと思います。
若手芸人の数が急増した今、各事務所ライブだけでは、全ての芸人志願者に鍛錬の場を提供できなくなっています。
各事務所で末端まで管理できていたのは30年ほど前までではないでしょうか。それだけまだ売れぬ若手芸人の勉強会的ライブというのは、お金も人的にも事務所のリソースが多く割かれる上、見返りも少ないので、なかなか積極的にバンバン開催出来ないというのが現実でしょうね。
そういった目の前の現実と、若い人の”今”の思いと共に発展継承してきたインディーズライブはごくごく自然な形で始まったのでしょう。
その頃から現在まで増減は繰り返しつつも、今も今日もどこかで開催されています。それを楽しみにしてるお客さんもいます。
僕も、2000年代中盤から2010年代は大阪の若手お笑いシーンに少しは貢献できたと思っています。
全ての芸人が売れる訳ではない。
けど、売れるために全力で限られた時間を精一杯頑張って欲しい。
と、いうことで長文になりましたがお付き合いありがとうございます。
ここからは若い人に向けメッセージを。
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