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黒潮の燦き(田中一村)

 きっかけはスケッチ旅行で訪れた、宮崎県の青島だった。

 青島は、日向灘に半島状に突き出た平坦な小島だ。
黒潮が流れ、温暖な気候で雨量が多く、青島神社の神域なので昔からの熱帯性の植物が繁茂している。ヤシ科の「ビロウジュ」の最北地の群生地でもある。青島の「ビロウジュ」は南方から黒潮に乗って漂着したと言われている。
 島の遊歩道を歩いているとき、海からの照り返しの光が目を刺してきた。ヤシの葉が茂った林を透かして黒潮の光が輝いている。「ビロウジュ」の林は生命にあふれて楽園の匂いを漂わせる。
その緑の葉の縁取りを通して黒潮のきらめきが周りの空気を命があふれる濃い息吹に変えた。その情景にしばらく立ち尽くした。
 今まで自然の植物や動物の情景をテーマに日本画を描くことを生業としてきた。
このきらめきは日本の風景には無い光だ、今までに感じたことのない感覚だった。

 父は彫刻家だった。幼い頃の私は水墨画に夢中になり、数々の児童画展で入賞し「神童」と呼ばれた。東京美術学校に入学、同期に東山魁夷、橋本明治らがいた。父が病気になり経済的に厳しくなったことで中退した。
そのあとは後援者も有り、水墨画(南画)を描くことでそれなりに生計を立てていた。しばらくして日本画に転向した。しかしその後は日展や他の展覧会に出品するも泣かず飛ばずの状況が続き、中央画壇への登壇は叶わなかった。
 スケッチ旅行の体験が、心から離れなかった。黒潮の息吹をなんとか自分の絵のテーマにしたいと考えるようになった。
黒潮を遡って理想の情景がある場所に住まいを移すことを考えた。
院展の落選を契機に家を売り、アメリカから返還されたばかりの奄美大島へ渡った、50歳を過ぎていた。
 名瀬港についたのは師走の中頃だった。冬とはいえ亜熱帯性の気候なので一面緑だ。ただし年間の日照時間は日本一短く雨や曇りの日が多い。
奄美大島は南の楽園ではなかった。
古くは琉球王国、薩摩藩、鹿児島県から太平洋戦争で敗戦後はアメリカ統治の時代が続き、ようやく鹿児島県へ帰属となった。
江戸時代は薩摩藩の財政を担うサトウキビの一大産地であったが、全て藩に収奪されていたので、毒のあるソテツで餓えを凌ぐ厳しい時代が続いた。
戦後返還後も大きな産業はなく、変わらぬ大自然と大島紬の産地として名を知られている程度だった。
島に渡ってしばらくは、支援をしてくれている医師のつてで、国立療養所の官舎に住んだ。1年後、千葉に戻り見合いをしたりしたが実らず、奄美に戻る。
 

このときから名瀬に居を構え、終の地として、人生を歩むことにした。
奄美大島といえば大島紬である。紬工場で染色工として生計を立てる。働きながら、絵は描き続けた。
 奄美の自然は壮大だ。絵の対象になる植物や鳥、生き物は多岐にわたる。本島は沖縄の島々とは違い海岸線の近くまで山が迫っている。島でも山間部が多く、亜熱帯の色鮮やかな動植物が生息している。
日々の生活の中で出会ったそういった動植物が絵の主題となった。

亜熱帯の森に映えるのはヒカゲヘゴを背景にしたリュウキュウアカショウビンだ。森は生命に溢れている、ゴーギャンの絵の「楽園」の匂いがする情景だ。しかし「楽園」では無い確かな奄美独特の濃厚な空気が漂う。
夕飯に買った魚も極彩色で創作意欲を掻き立てる、黒潮は海の中まで南国に染める。

 昼間は泥にまみれながら紬工場の染色工を続け、夜は南国の魚と黒糖焼酎の夕飯を食べ、南国の花鳥風月を描く日々が続いた。
 名瀬の隣町は龍郷町というところだ。龍郷町には大きな半円を描いた入江があり、奄美ブルーに染まった砂浜が続く、この湾は不自然に島を半円に削り取っている。学者が調べたところ、どうも隕石が落ちた大きな穴の跡らしい。隕石は未だ見つかっていない。
海岸線を埋めるのはアダンという植物だ。アダンにはパイナップルのような黄色い実がなる。奄美の白い砂浜のアダンの縁取りは本当の南国ではない黒潮の浜辺を象徴している。
奄美大島は南国の楽園ではない。海の向こうにある未だアメリカから返還されない沖縄はもっと南国の「楽園」なのかもしれない。
 奄美は黒潮に彩られた大自然の島々である。複雑で深遠だ。台風の脅威は筆舌に尽くしがたい、何度経験しても吹き飛ばされる恐怖は去らない。何日も居座った台風が去った後はいくつも崩壊した建物を見た。


私の住んでいる「御殿」はあばら家だが奇跡的に崩れないで無事でいる。
奄美に住んでもう10年以上になる。奄美の人たちにも受け入れられていると思う。
大自然をテーマにした絵は継続して描き貯めている。最近は体調がすぐれないことが多く、染色工も力仕事なので、休みがちになった。
少し蓄えができれば休んで絵を描くことに専念し、体調が戻れば仕事に戻ることを繰り返すようになった。

 龍郷町の浜辺で黒潮のきらめきを描くことが習慣となった。その光は10年前も今も変わらない。おそらく100年前も100年後も変わらないだろう。黒潮が日本の風土を作ったと行っても過言ではない。南の海で温められた海水が、温かい空気や生き物を日本に運び込んで独特の風土や情景を作り出す。
黒潮が流れてきた距離で情景変化の度合いは変わる。日本列島のそれぞれの場所で黒潮が作るそれぞれの情景がある。
私はその黒潮に魅せられた。この十年は奄美の黒潮を描いてきた。
黒潮が作り出される本当の南の海には行ったことが無い。

すこし南の沖縄にも行かないまま人生の終盤まで来た。おそらくもう行くことはないだろう。しかし奄美の黒潮を通して、「楽園」を夢見る。たどり着けない「楽園」だ。「楽園」とはそういうものだろう。


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