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犬の系譜 ①

1.取調室
「いよいよ段田さんのおでましですか」若手の捜査員が、部屋に入ってきた私に席を譲った。取調室に入った途端、「嘘」の匂いが充満しているのに気付いた。
「誰に何を聞かれようと、私は何も知りませんよ。」段田の前に座る男は、表情を変えず呟いた。段田は正面から男を見た。身体全体にすでに黒いモヤがかかっている。「わかりました、それじゃあこの写真の女の人は見たこともないという事ですね。」男の目の前に被害者の女性の写真を出した。男は一瞥し、表情を変えずに言った。「まったく知らない方ですね。初めて見ますよ。」噓の匂いと同時に、男の脇のあたりからまがまがしい黒いモヤが湧き出してくるのが見えた。嘘をついているのは間違いない。「嘘はよくないですよ。あなたは間違いなくこの方を知っています。」段田はすべてを見通すような眼光で男を見つめた。それまで平然していた男の表情に、他の捜査員の眼にもわかるくらい動揺が走った。段田は他の捜査員に目配せをした「こいつはクロだ」の合図だ。役目は果たしたので席を捜査員に譲り取調室を出た。匂いがきついので人が密集している部屋の中に長時間居ることができない。容疑者の男が嘘をついていることがはっきりしたので、捜査は進展するだろう。
 私は「千里眼の段田」と呼ばれている。容疑者や証言者の「嘘」をいとも簡単に見抜くからだ。それだけではない、見た目だけでは判別できないその人の性格や犯罪を行う前の気配とかも正確に見通すことで一目置かれている。何故そんなことができるのか?ベテラン捜査員としての経験とカンのなせる業だということになっているが、人には言えない特技がある。
 実は「匂い」を判別する機能が人並外れて優れているのだ。いわゆる「鼻が利く」ということなのだがその程度は半端じゃない。人が嘘をついた時の匂いがわかるのだ。嘘だけではない。うしろめたさや、緊張、さびしさや悲しさ、喜びまでも匂いとして感じることが出来るのだ。
 
2.系譜
 段田家は祖父の代まで、奈良と和歌山の県境の山奥でマタギを営んできた。紀伊山地の山奥と言えば、山伏や密教僧の修行のメッカである、かの超人役行者もここで活躍した。
 急峻な山並みが連なり、里と言えるところは山間のわずかな土地しかない。農業を営む平地がほとんど無いので、山を生業とするマタギや木こり、炭焼きぐらいしか生計を立てる術がない地域だ。そういった山の種族の中でも段田家は伝説のマタギといわれていた。
 マタギの生活は犬とともにある。狩猟のパートナーとして、山や谷を駆け回り、熊やイノシシと対峙することや、冬山の脅威や山の天候の脅威に、時には生死を賭けることにも直面する。その生活には犬の能力が必須である。
 まずはケモノの匂いをかぎ分けることだ。数キロ離れた山の向こうのクマの匂いを嗅ぎ分けることができる。日々の糧を追う生業は匂いをかぎ分けることから始まる。ケモノの匂いだけではない。雪や雨など気象現象の予兆も匂いとしてかぎ分けることが出来る。特に山間地では最大の脅威となる「山崩れ」の気配を土の匂いとともに察知することが生死につながるのだ。そういった犬の能力を最大に活用することができるのがマタギだ。
 段田家は代々、犬をパートナーとして人生をともに歩み、またマタギの傍ら、修験者として能力を高めることも自身に課していた。
犬の能力を自分の身に備えられたのも修練を重ねた家系の進化の必然だったかもしれない。犬は嗅覚が人間の数千倍から1億倍優れていると言われている。正確に測ったことは無いが段田家の人間は犬に近い嗅覚があるようだ。例えば今回の様な容疑者の嘘は匂いで判別できる。
 そして匂いセンサーがそれだけ能力が高いとそれを認識する脳も併せて発達するようだ。人間は通常、鼻孔で判別した匂いはそのまま匂い信号として脳で認識する。しかし、匂いセンサーからの情報量が多いと匂いの認識野だけでは処理できず、一部視覚となって認識されるように進化した。
 つまり匂いに色がついて見えるようになったのだ。犬は嗅覚が発達したかわりに視覚機能が制限されていて、色が識別できない。犬が見る世界は白黒のモノトーンである。
 段田家の人たちも嗅覚の能力向上とともに色を感じる能力が削られ、色盲となった。しかしそのかわりに「匂い」に色がついて視覚野に現れるようになった。彼らが見る世界は、通常の景色に色のついた「匂い」の世界が重なるように見えている。
 人の嘘は黒いモヤとなって脇のあたりから湧き上がってくるのが見える。嘘や怒りや悲しみの様な負の感情は灰色や茶色等、暗色のモヤとなって発生する。反対に喜びや楽しみ、愛情など正の感情は、パステルカラーの明るめのモヤとなって身体から湧き上がるのが見えるのだ。
 
3.街は匂いであふれている
 段田の父親の時代は第一次産業苦難の時代だった、確変状態に入った戦後経済の中、特に山を生業とする人たちは急激に数を減らした。段田家はやむを得ず山を下りた。
父親は農業を生業とし、一家の特技を発揮することもなく山に近い村里で糊口をしのいでいた。段田が青年になった頃は、就学・就職で都会へ出ることが当たり前の時代になっていた。
田舎で暮らしている間は自分の特殊能力をそんなに意識することは無かった。というのも自然から発する匂いはあまり発色しない。動物や人の匂いはよくわかるが、山の中や植物の匂いは、少し色づく程度で激しさが無い。
高卒で警察学校に入り大阪府警に就職した。初めて大阪の繁華街に行った時の驚きは忘れない。まず人ごみから発する匂いが桁違いに強い。人数が多いだけではなく、様々な感情がぶつかり合うことで増幅され、激しい匂いとなるのだ。さらに自分の匂いをごまかすために香水をつける。人工的な匂いは強い色を発する。そうすると繁華街は様々な色の炎となり、巨大な「匂い柱」となり天を焦がす。
 普段は眼鏡を掛けない段田だが、この情景で目が痛くなり、都会にいるときはサングラスを手放せなくなった。派出所勤務の警官として何年か任務をこなした後、30代になるのと同じくして念願の刑事となり、捜査一課に配属となった。刑事という職業は、段田の特殊能力にとても合致する。この職業の為の能力と言ってもいいぐらいだ。聞き込み捜査では嘘が匂いとしてわかるので、真実をすぐ判別できる。犯罪を重ねる人間は憎悪や悲しみ等、感情が極限となる。その匂いが段田には離れたところからでも見えるので、犯罪の気配を正確に見分けることができる。かくして段田は名実ともに「警察の犬」となった。
 
4.蛇頭
 段田は現場の刑事として頭角を現した。たたき上げなので出世は望めなかったが、刑事としての現場仕事に生きがいを感じていた。何しろ隠された自分の特技が役に立つことがうれしかった。
 様々な現場を潜り抜け、多くの事件を解決に導いてきたが、ここ10数年の犯罪は様子が変わってきている。スマホやITの社会への浸透、コロナ禍による人が接触する場面の減少により、犯罪者のターゲットへのアプローチがバーチャルを介するようになってきた。詐欺や特定個人への攻撃、犯罪に発展する有象無象のすべてがネット上で展開するようになってきたのだ。
もちろん犯罪現場の多くはリアルである。ただ犯罪への糸をたどる刑事の仕事の多くはバーチャル空間に入れ替わり、そこには匂いが無い。年齢を重ねるとともに、段田が活躍する場面も少なくなってきたのだ。
 また、日本の犯罪組織の頂点にいた暴力団は、暴対法の強化が功を奏しほぼ壊滅状態となっていた。コロナ禍で繁華街に人が集まらなくなったことも衰退に拍車をかけた。暴力団の予備組織であるハングレ集団も基本は暴力団と同じ行動原理で組織構成されているので、とってかわる勢力にはならなかった。これで世の中から犯罪が無くなるのかというとそうならないのが世の常である。
コロナから世の中が復活し、インバウンドが再び繁華街に活気を戻しだしたころ、アンダーグラウンドの世界で勢力を拡大したのは外国勢だ。実習生崩れのベトナム人勢力もあちこちで事件を起こしたが、やはり人数、実力とも他を圧倒したのは、「蛇頭」つまりチャイナ・マフィアのグループだ。豪華ホテルの高層階宴会場を貸し切りにしてパーティーを開き、日本の暴力団と揉め事を起こしたり、白昼堂々の窃盗団を操ったり、中国からの旅行者を使うなど、大胆な犯罪が目立つ。大阪府警はいわゆる「ミナミ」を根城に暗躍する「蛇頭」グループに手を焼いていた。
 段田は大阪南港にある公団マンションに暮らしていた。ベランダからは大阪市内が一望できる。段田の眼には大阪市内に立つ「匂い柱」が見えていた。繁華街が活況となると匂いの勢いは強くなる。コロナ禍の間は見えなかった「匂い柱」が、今ははっきり見える。それもコロナ前のピンク色のモヤではなく、黄色がかった黒い毒々しい「匂い柱」だ。匂いだけではなく黄色の煙の奥に嫌な予感がうごめいていた。
 
5.トクリュウ
 段田が所属する捜査1課は殺人事件や強盗事件を扱う。必然的にアンダーグラウンドな連中と対峙することが多いのだが、特定の組織が見えない事件が増えてきた。
 SNSを通じて緩やかな結びつきで離合集散を繰り返す犯罪グループが増えてきたのだ。現場で犯罪を実行する連中は、お互いが初めて会った知らない者同士だったりするので、SNSの向こうの指示をする本当に悪い連中までなかなか糸がつながらない。実行犯をいくら捕まえても、本丸の組織までつながらないケースが増えてきたのだ。
  こういった匿名・流動型犯罪グループのことを「トクリュウ」と言う。犯罪グループが、匿名性の高い通信手段を活用しながら役割を細分化したり、犯罪によって得た収益を元手に各種の事業活動に進出したりするなど、その活動実態を匿名化・秘匿化するような構造となっている。
 特殊詐欺のいわゆる「掛け子」のグループが海外を拠点にしていることも摘発の難易度を上げている。いずれにせよこういった犯罪グループは糸をたぐれば、組織犯罪を生業とする暴力団が存在する場合が多かったのだが、その弱体化に伴って海外の犯罪グループが入れ替わりで台頭していると思われるケースが発生している。
 海外勢力の筆頭である「蛇頭」はなかなか尻尾を出さない。「トクリュウ」の犯罪は、現場の実行犯を如何にリクルートしてくるかがカギとなる。従来の実行犯は、国内のハングレや学生、リアル社会に適合するのが苦手な若者たちをターゲットにしてきた。しかし最近はそれに加えて、海外からの旅行者を実行犯として利用するケースが増えてきている。日本は特に中国からの旅行者が最も多く2024年はコロナ前並みの1000万人を超えると言われている。「蛇頭」の勢力圏は華僑と重なり、言わずと知れた国際組織だ。経済の停滞が激しく行き場のない中国の若者をリクルートして、中国に比べるとはるかに社会監視体制が緩い日本で犯罪を重ねるのは理にかなっている。日本で犯罪をおかし、帰国してしまえば、世界中で二か国としか「犯罪人引き渡し条約」が締結できていない日本は、もうどうしようもない。先日も心斎橋の高級時計店でかつらをかぶった中国人旅行者が店員を刺殺し高級時計を奪って逃走した。幸い関西空港で水際逮捕できたが、これからも同じ構図の犯罪が発生する可能性は高い。
                                    つづく

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