私について、そして進撃
初めましての方も、そうではない方も、はじめまして。
なぜなら初めましてではない方などいないからです。
すみませんつまんないことを。
私がnoteを投稿してみようと思った理由は、私の大好きなとあるコンテンツ(目次noteについて1では、そのコンテンツについて詳しく言及しています)についてまとまったことを書く場が欲しいと思ったからで、
言ってしまえばそのたった一つの記事を書くために始めたと言っても過言ではありません。
そのため私個人について知ってもらう必要があるのかどうか、極めてグレーだと思ったのですが、
その後もブログを続けていくという一縷の可能性を考慮し、
グレー寄りのオフホワイトだろうという結論に至りました。
※文章が重たくなる部分があったため、コラムとして最後に除けました。ぜひ。
私について
私は、とある大学で数学の勉強をしております。というか、しておりません。
受験勉強より遥か前、高校一年次に燃え尽きてしまったクチです。
世間のみなさんのような血の滲む苦労話もなければ、今の華々しい成功を導く挫折経験も(今の華々しい成功、の方も勿論)ない。
私が自分に課したことは、何も知らない目で見、何も知らない頭で考えることでした。
私のことは、重要なことを忘れて考え事に熱を奪われる一般人、そう呼んでください。
やっぱり、長いのでsouhuと呼んでください。
「私について」について
「私について知ってもらう必要があるのか」と悩んでおきながら、あえてかなり自我の強いタイトルにしました。
そしてその割には、かなり薄い内容になっていると思います。
自己紹介はするけれど、私について語ることは今のところなさそうだ――というのが、「オフホワイト」の意図するところです。(オフホワイトとは、他の色が少し混ざった白のことを言うそうです)
さてなぜ私は、検索しなければどういう色かもよく分からないような色を持ち出したのでしょうか。
要するに、私ではなく、私の言葉を見ていただけると幸いです、ということになります。私については、語り口からその人間性を自由に想像して欲しい、とも思っています。
私そのものには自信がありませんが、この世界を色彩高く表現することにかけては、オールウェイズ最高品質をお届けすることを保証します。
白とグレーの間が見える器であります故。
noteについて1
先ほども書いた通り、私は現段階でとあるコンテンツについての記事を書くことしか考えていません。そしてそれが最初にして最大の大作となるはずです。(そしてそれすらも、大した構想は練っていない)
とあるコンテンツとは、『進撃の巨人』についてです。
『進撃の巨人』とは、巨人と巨人の進行を阻む壁に囲まれた街を舞台に物語が展開される激おもろ漫画のことを指しています。
みなさんは、『劇場版「進撃の巨人」完結編 THE LAST ATTACK』が現在上映中であることをご存じでしょうか。
私は、公開二日目に見てきました。
公式情報では”The Final Season完結編の前編/後編が再構築された”ものとして公表され、
またポニーキャニオンのYoutube公式アカウントで投稿された「見どころ紹介映像」では、主人公エレン・イェーガーの声優をつとめる梶裕貴さんの口から、エンドクレジット後に流れる追加シーンについての言及があります。(そして現在公式によってその内容も公表されています)
気になる方は↓
劇場版の内容についてこのブログで触れることは今後も一切ありませんが、
豚(トン)にも角煮も、いたく感動したということを、この章では書きます。
そして私は、とても奇妙な風の吹き回しで、原作漫画、アニメにおける『進撃の巨人』という作品を総括的に講評したいという思いに駆られてnoteに辿り着きました。というのも、
世界観
キャラクター設定
セリフ回し
心理描写
映像、音声美
「伏線」 etc…
などの様々な要素について、私の目線から『進撃の巨人概論』として書き上げてしまおう、という野望です。
ですので、『進撃の巨人』を知らない方にとっては推奨されない内容になること待ったなしですが、そんな方にも読み物として楽しんでもらいたいようなもの、を目指しています。(しかしネタバレ)
進撃の巨人について以外の記事を書くと仮定して、次の章はそのことについて。
noteについて2
先にも少し書きましたが、私はよく考え事をします。
そして考えた結果何も得なかったり、自分なりの正解のようなものが見つかって悦に入ったりします。
私の考えたことを残しておきたい、誰かに読んでもらいたいと思ったり、
あるいは、
『進撃の巨人概論』が完成するまでのお茶濁しとして、
思考の屑や、突如として私の趣味の話が登場することもあるかもしれません。
また私はこれでも物書きの端も端くれ(金メダルでいうと噛む部分)ですので、物語を投稿するということも…
…本当にあるでしょうか?
と、軽くそのくらいにしておこうかと思います。
自己紹介にしては、長すぎる文章になってしまったように思いますが、
読んでいただいてありがとうございました。
では今後とも…
おっと…まだ早かったようです。
今後ともよろしくお願いします
<「今後ともよろしくお願いします」と言うための章。>
コラム 人間の感情と言葉について
私が映画『劇場版「進撃の巨人」完結編 THE LAST ATTACK』を観て不思議に感じたことは(内容には触れません)、家庭内で実現し得ない巨大なスクリーンと爆音、圧倒的な情報量をもって鑑賞するそれは、たとえ同じシーンであっても、アニメで見たものとは全く異なる感覚として脳に受け入れられたということです。
そしてそれが意味するものは、私の成長や考え方の変化ではなく、
人は、その時々の精神状態、環境、腹の減り具合、腕毛の剃り具合によっても、同質の情報に対し異なる感想を抱くという事実です。
通常、その「感想」はその人の中で不動の地位を築くと考えられています。
それは、「感想」を「言葉」によって保存しようとするためです。
この習性により人間は、複数の話題を他者と共有し、共感を媒体として関係値を深められるようになっています。
しかし、厳密には、言葉によって保存されるものは「感情」ではなく「時間」であり、
そしてそれは、封を切った途端無慈悲な「現在」によって過去へと昇華してしまうほど不安定なもので、
「おもしろい」といった曖昧な感想ほどその傾向も強くなる、と私は考えています。
人がとあるエンターテインメントに対して、「」と感想を漏らす度に、共感の代わりに「まあ、人によって違うからなあ」という言葉が使われることがよくあります。
特に偏向的な主義に従って意見が対立しやすいネット上の論争においては、それを仲裁する役割としてその言葉が用いられることも多いです。
勿論、ネット上のレスバで解決する問題なんてこの世にはありませんから、人によって違うことを許容することは対立を防ぐためには有効であることは確かです。
しかし、「人によって違う」とは、大まかには正しいが上の再定義に従えば厳密に言い得てはいない、と私は思います。
言うとすれば、
「時によって違う」
でしょうか。
時の移りによって好意的な「感想」に到達するまでの距離がもっとも遠いのは、やはり「無関心」だと思われます。
そして私にとってこの世界とは、「好き」と「無関心」で大別されています。少しは、建前ですが。
建前上では、世の中は全てが「よい」もので構成されているのです。どんな物体も、人も、コンテンツも、とある角度からはダイヤのように輝いて見えるはずです。
では、また裏を返せば「とある角度から見ればゴミのよう」であるそれを、私が「悪い」ではなく「よい」と呼びたがっているのはどうしてでしょうか。
それは、人が、誰かが「よい」と呼んでいるものが綺麗に見えることを恐れているからではないでしょうか。
そのあたりに、私が「言葉は感想を保存しない」と言いながらも言葉で表現しようとしている謂れがあるのではないか、と、自分でも正確に分からないでいます。
ただ一つ確かなことは、私自身を含め、「嫌い」という言葉を誰かが使わなくなってゆけば避けられる対立もあるのではないか、と私が考えているということです。
その発想は一方では傲慢ですが、果たして本当に、「嫌い」を規制することは人から思考の自由を剥奪することと同義と言えるでしょうか。と、私は疑問を感じざるを得ません。
(最後は少し重たい文章になってしまいましたが、それは私の悪い癖です。
しかし、こういうことを書きに来たのでそれほど的外れでもないようです。)