私たちが意味があるなと思うものはやはり意味があって、大事だなって思うものはやはり大事であるという話。
ニーズ・価値・真理
神様とか、伝統文化とかが人々の行動の良し悪しを決めなくなった近代(もちろん、それを盾に共同体内の不平等を正当化していたし、その名残はあちこちにいるが)どうやって、これが価値のあること、意味のあることで、何を根拠として倫理を作ったらいいのかっていうのがめっちゃ難しいなと。
いろんな価値が相対化されつつも、科学と貨幣を通じて構成されている社会だけあっても、それらは私たちの人生の意味や倫理を決めてくれるどころか、それが目的になってしまうと弊害がいろいろと出ると言われているこの頃。
倫理を主張すると「それはあなたの考えでしょ」っていわれて平行線になってしまうことに対して、「意味っていうのは意味があるから、意味があるんだっていう」一見説得力ない論理の根っこをを厳密な理論で、照らし出したのが本書です。
文中の言葉を使うと「通常の人間中心主義的な客観的」「価値焦点と発見という要素」「発明という要素」の、3つの概念のための場所が、意味や幸福にまつわる言葉の根っこの場所としてあると僕はこの本を読んで感じました。
科学、つまり客観性が、今の時代幅をとっていて、主観を乗っ取ろうとしてくる言説とか、主観が作れないぐらい忙殺されることって、めちゃくちゃ危険になるし、それを照らし出せるぐらい客観性がある、ちゃんとした対話は大事だと。
とはいえ、いいものはいいと感じられるわれわれなら、ちゃんと焦点を合わせると良くなかったことは良くなかったとみえて、よかったことはよかったと。あってるかわからないんですが、思い出したのが、映画アクトオブキリングでした。
焦点を合わせるって大事で、焦点合わせないで生きてくことはできると。ただ、この最後で、自分のした行為に嘔吐してましたけど、やっぱり良くないことは、やっぱり良くないよねっていうところに焦点があったのだと。「よくない」って言葉使っていたら、共同体がいくら相対化されようが、「よくない」はみんなのイメージで社会化されていると。
「これが必要なんだ」っていうニーズって、ほかにやり方があったとか、自己責任とかいいますが、やっぱり必要なんだと思います。そのため、専門家とか、科学も大事っちゃ大事なんですが、「主観」も、もっと大事にしてあげる社会になった方が、生きやすいんじゃないかなと思います。
この根っこを見つけて、やっぱり倫理や価値って意味あるよねってところまでが理論家の仕事で、わたしたちが何をするべきかというのは、そうした、道徳や宗教に理論的な関心を示し、実践する役回りが自分にあっていると思う、教師や伝道者が、内的な必然性を発見し伝えていくことが、必要だと。そのための手段に、客観性や科学の恵みは使えるし、焦点を合わせること、過去にあるものから発見する事、そして創造することも、私たちにできるんだと考えたら、いい感じですね。
パーマカルチャー、NVC、子供の教育やるにしても近代の精神の「ニーズ」「倫理」「意味」が、どうやらめちゃくちゃ大事らしいというのが、本当によくわかってきたので、その事をおそらくこの時代めちゃくちゃ考えてるだろう人の、巨人の肩に乗れる経験ができて、ちょっとだけ見える景色が変わったように思います。
ウィギンズ、『ニーズ・価値・真理』訳者が難解と言ってるぐらいで、難解でしたが、それぐらい今の現実は細い道をいかないと意味とか見出せない、世界なんだなと感じました。めっちゃ面白かったです。
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b181011.html