44.逃げ出した2人。/朱に交われば紅くなる2
本編
「勝負……って、誰と?」
まず反応したのは明日香(あすか)先輩だった。続けて葉月(はづき)先輩が、
「もしかして…………佐藤(さとう)さん、ですか?」
「……!(こくこく)」
無言で頷く月見里(やまなし)。
挑戦を受けた陽菜(ひな)はというと、
「え、なんでですの?」
当たり前である、
そもそも陽菜が敵視しているのは紅音であり、月見里ではない。事の発端となったのが彼女だったとしても、眼中になどあるはずがない。
テストの成績的にも、最近は比べるまでもなく陽菜の圧勝なわけで、そこにライバル心などあるはずもない。
紅音(くおん)は思わず、
「もしかして、この間のこと。まだ気にしてるのか?」
この間のこと、というのはつまり、陽菜との勝負を受けた日のことである。
結果的に勝負をすることとなったのは紅音だが、売られた喧嘩を買ってしまったのは月見里だったのは間違いない。それをまだ気にしているのではないだろうか。そう考えたのだ。
しかし、月見里は首を横に振り、
「ち、違います。それとは関係なしに、勝負したいんです」
「また、なんで……」
「そ、それは……」
言い淀む。
紅音相手にこういった態度を見せるのは珍しい。ただ、別に悪意を持って隠しているわけでもなさそうだ。
と、なれば。
「分かった。おい、佐藤」
「な、なに?」
素が出てるぞ、ハリボテお嬢様。
「勝負してやってくれないか。なんか御所望みたいだし」
そんな提案を聞いた陽菜は、露骨に機嫌を悪くし、
「は?なんで?」
「なんでって言われても……勝負したいって言ってるから……」
ぶちっ。
何かが切れた音がした気がした。
陽菜は淡々と、
「いいですわ。勝負しましょう。私が投手で、月見里さんが打者。一度でも前に飛ばしたら月見里さんの勝ちで良いですわ。ちょうど、バットもあるようですし」
視線の先には明日香先輩。その方には確かにバットケースらしきものが担がれていた。
「まあ、あるけど…………え。マジでやるの?」
「ええ」
即答だった。
葉月先輩が、
「本気ですか。月見里さん」
「はい」
こちらも即答。
どうやらお互いの意思は固いようだった。
◇
ヒットを打つ、とかならばまだしも、前に飛ばす、ということならば、大丈夫だろう。そんな明日香先輩の判断の元、出来る限り危なくない方向を模索したのち、勝負が始まった。
投手は陽菜。
打者は月見里。
キャッチャーが明日香先輩で、審判は葉月先輩。この間と似通った構図だが、紅音がいるのはマウンドではなく、バッターボックスの斜め後ろだった。
「ルールは簡単。私が投げる球を、一度でもフェアゾーンに飛ばしたらあなたの勝利。何時間もやるわけにはいきませんから……大体1時間くらいをめどにしましょうか?」
一通りのルールを宣言する陽菜。それに対して月見里は一つ縦に頷いて、
「……大丈夫です」
やがて、陽菜がキャッチャーに正対する。葉月先輩が合図をかけると、ワインドアップから東急モーションに入り、一球目を、
「っ…………!」
投げる。
ブンッ!
ばしっ!
「ひゅう……流石エースやってるだけあるわ」
明日香先輩が感心する。
当たり前だ。
球威が違い過ぎる。
さっきまで紅音に投げていたのはあくまで「キャッチボールの球」でしかなかったのだということをまざまざと感じる。比べることがおこがましいのを前提に、紅音よりも速い球を投げているように見えた。
投げ返された球を受け取り、再び投球モーションに入り、投げる。
ブンッ!
ばしっ!
先ほどと全く同じ光景。
リプレイ映像のようだ。
それからしばらく、同じ光景が続いた。陽菜が投げ、月見里が空振り、明日香先輩が投げ返す。月見里も運動自体は苦手ではないようで、スイング自体は綺麗だったが、それでどうにかなるような相手には見えなかった。
「勝負として成立してるのかしらね、これ」
葉月先輩だった。
そもそもストライクかボールかの判定を必要としないと感じたのか、マスクを取って、紅音の隣に立っていた。
「西園寺(さいおんじ)さん」
「……なんでしょう」
「私は明日香ほど直情的ではないつもりです。だけど……いえ、だからこそ気になるのです。どうして急に勝負をしないことになったのか。そして、どうして佐藤さんと一緒にいたのか」
「…………」
「そこには当然、私たちに言えないこともあるのかもしれません。だから、全てを説明してほしい、とは言いません。私も、あなたが何の理由もなくそんな行動をとる人だとは思っていませんしね。ただ、」
そこで言葉を切って、
「ただ、月見里さんには、彼女だけには説明をしてあげてほしいんです」
「月見里に、ですか」
「ええ。実はですね、彼女、特訓をしてたんですよ?」
「特訓?」
「そう。特訓です。佐藤さんに勝負を挑んだのは自分なのだから、本来は自分が勝負すべきなんだって。だから、打撃を教えて欲しいって、そう言ってきたんです。数日前、突然部室に来て、ね」
数日前。
部室。
その組み合わせは、
「もしかして、なんですけど……佐藤が来た日の翌日ですか?」
「……よく分かりましたね」
「変なところで月見里に会ったんで。あの時はそんなに気にしてなかったんですけどね」
「そう、ですか」
沈黙。
やがて、明日香先輩が痺れを切らしたように、
「タイムタイム!」
離れたところにいる陽菜が首をかしげるが、それは全く無視して、
「ねえ、朱灯(あかり)ちゃん。なんでこんな勝負するのさ。いいじゃん、あいつと佐藤さんは仲直りしたんだよ?ね?」
と、説得しようとする。だが、月見里の意思は固く、
「やります。打つまでやります」
「やりますって……西園寺!突っ立ってないで、なんか言ってやってよ!」
話が振られる。紅音と葉月先輩は二人して歩み寄り、
「そもそもなんで勝負なんて話になったんだ?あれは別に月見里の責任じゃないっていったじゃないか」
「そう、なんですけど……」
言い淀む。
まただ。
どうやら。月見里にとって「佐藤陽菜に勝負を挑む理由」はあまり口外したいものではないらしい。
紅音は後ろ頭をかいて、
「……俺に出来ることはあるか?」
「西園寺?」
明日香先輩が「何言ってんだおまえ」とでも言いたげな雰囲気を醸し出してくるが、無視する。
月見里はぽつりと、
「見える位置にいて欲しい、です」
「見える位置っていうと……」
「…………(ぴしっ)」
無言で指さす。その指の向いている方向は、本来ならば左バッターボックスがある位置だった。
「左打席……は流石に危ないから……もうちょっと離れたあたりでもいいか?」
そんな提案を月見里は首を縦にこくりと振り、
「大丈夫、です」
肯定する。形は決まった。紅音はそそくさと離れていく。明日香先輩は何かを言いたそうな目をしていたが、
「まあ、朱灯ちゃんがいいならいいけど……」
と渋々キャッチャーの定位置に戻っていく。葉月先輩はと言えば、再び紅音の隣に行くのではなく、それとは反対側の、離れた位置へと移動し、
(……鈍感も行き過ぎると罪ですよ、西園寺さん)
ただただ傍観を決め込んでいた。
その行く末が、望まれる結末であることを願いながら。
「ごめんごめん。再開ねー」
明日香先輩が陽菜に声をかける。訳も分からず待たされた陽菜はぶつぶつと紅音たちに聞こえないような文句を言いつつも、ゆっくりと準備をし、投球の動作をし、投げる。
キンッ!
ばすっ。
「え」
「お」
当たった。
確かに当たった。
月見里の振ったバットは確かにボールに当たり、金属音を響かせていた。あたりとしては完全なファウルボール。わずかに軌道がずれたボールが明日香先輩のキャッチャーミットにあたって落ちる。
「マジか……」
明日香先輩はそのボールを拾ってまじまじと見つめた上で返球し、
「これが恋の力ですか……」
「?」
ぽつりと、月見里にも聞こえないような声でつぶやく。
返球を受け取った陽菜は独り言ちる。
「そんなことない……ちょっと視界にあいつが入るようになっただけで、そんなに変わるわけない。偶然よ、偶然」
誰に向けるでもない言葉は、もしかすると自らの心を落ち着かせるため、だったのかもしれない。
やがて、再び陽菜が明日香先輩と相対する。ワインドアップモーションから、再び、投げる。
キンッ!
ぼてっ。
ころころころころ……
時が、止まった気がした。
陽菜の投じた一球は、確かに月見里のバットを押していた。もしこれが、野球の打席ならば何でもない平凡なあたりだ。ピッチャーが動揺することもなければ、ヒットになどなるわけがない。
ただ、これは試合ではない。
勝負だ。
フェアゾーンに打球を飛ばせばいいという極めて緩い勝利条件なのだ。
そして、今。
ボールはてんてんと転がっていた。
位置はキャッチャーの真ん前。記録をつけるのであればキャッチャーゴロといったところだろうか。
ただ、フェアゾーンには変わりがない。
従って、
「え、これって……朱灯ちゃんの勝ち?だよね」
最初に口を開いたの明日香先輩だった。間近で見ていた人間がそう思うのならば疑うよちはないだろう。月見里は間違いなく陽菜との「勝負」に勝ったのだ。
「勝者、朱灯ちゃん!」
その宣言を聞いた紅音は思わず歩み寄り、
「すげえ……野球の才能あるんじゃないの?」
葉月先輩が呆れた声で、
「それ、あなたがいいますか……」
「いや、でも、凄くないですか。俺でも当たらないかもしれないのに……」
明日香先輩がマスクを取って、
「まあ、正直初球を受けたとき「あ、無理だわこれ」って思ったもんね。いやぁ、凄いなぁ……これが……なんでもない」
「なんでもないってなんですか」
「なんでもないのはなんでもないんだって」
「ふふっ」
束の間の静寂。
勝利の余韻。
小休止。
嵐の前の静けさ。
どの言葉も正しく、どの言葉も違う。
今、まさに起きようとしているのは、
「帰る」
気が付いた。
気が付いてしまった。
荷物をまとめて、吐き捨てるような一言を残して、その場を去ろうとしていた存在に。
「え、帰るって、なんで」
「うるさい!」
拒絶。
そして、逃亡。
敗戦投手……佐藤陽菜は、その場を逃げるようにして走り去る。
「あ、おい!」
思わず追いかけようとしたその背中から、
「西園寺」
「……なんですか?」
明日香先輩に呼び止められる。
その顔には明らかな不快感がにじんでいた。
また陽菜なのか。
また、あっちにいくのか。
「いいじゃん。ほっときなって。いつもあんな感じなんでしょ?ずっと西園寺が勝ってるんだから」
違う。
あれはいつもの佐藤陽菜ではない。
そもそも陽菜とのバトルが何度も発生するのは、いくら負けようとも、「今回はちょっと運が悪かっただけ」だとか「次は負けない」といった風に言い訳をし、負けを認めようとしないからだ。
決して紅音が物好きで勝負しているわけでもなければ、負けるたびに敗残兵のごとき逃亡をするわけでもない。ましてや、あんな悔しがりかたをしたのを見たのは初めてのことで、
だから、
「すみません、探してきます」
「あ、おい!」
それだけ言って、陽菜の後を追う。既に姿は小さくなっていたが、荷物らしい荷物を持ってきていないおかげもあって追いかけっこにはこちらに分があるはずだ。
広場を後にした紅音。その背中を、ずっと一つの視線が追いかけていたことに、最後まで気が付くことは無かった。
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