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37.澱みきった世界の片隅で。/朱に交われば紅くなる2

本編

 どれくらいの時が経っただろう。

 お互いがお互いを見つめあい、相手の出方を探る、居合のような状態を打破したのはいろはだった。

「なんでって……近くに来たから、寄っただけよ」

 恐らく、その言葉に嘘はない。

 彼女は別に何も、紅音(くおん)を驚かせようと思っていたわけでもなければ、嫌がらせをしようと思っていたわけでもない。

 ただ、単純に「実家の近くに来たから寄っただけ」なのだ。その行動が紅音にとってどんな意味を持つのかなど、夢にも考えていないのだろう。

 そんな心中を察したのかは分からないが、いろはは続けて、

「別に、驚かせるつもりは無かったのよ。だから、ほら、優姫(ひめ)にも連絡をしておいたのよ」

「優姫に……?」

 二人の視線は自然と彼女の方を向く。すると優姫はうつむいたまま小さく縦に頷いて肯定する。いろはは補足を入れるようにして、

「今日の……昼くらいかしら、今日の夜、そっちにいくよって優姫には話してたの。紅音にも伝えておいてねって言っておいたんだけど、話してなかったのね?」

 再び小さく頷く。その姿はいつもよりも大分小さく見えた。

 謎が解けた。

 つまりはこういうことだ。

 いろはは優姫に対して連絡を入れたのだ。家に帰る、と。紅音にもそう伝えて欲しい、と。

 ところが優姫はそれを紅音に伝えなかった。

 いや、伝えることが出来なかったのだ。

 それを伝えたとき、その情報を紅音が知ったときにどんな反応をするのかが分かっているから。だから言えなかった。

 それでも時間は過ぎていく。相手はそんなことで予定を変えてくれることはない。だから優姫はそれを一人で抱え込んでしまったのだ。そして、とうとう期日になってしまった。

 もしかしたら、ずっと気にしないようにしていたのかもしれない。けれど、それで事実が消えてなくなるわけではない。それが、先ほどまでの「悩みを抱えた、心ここにあらず」な状態の真相だ。

 分かってしまえば大したことではないし、そう言われてみれば、彼女のこの反応は見覚えがあるものだ。

 そして、それはこと数年前までは「当たり前に横たわっていたもの」だ。なんで気が付かなかったのだろう。それだけ、今の生活に慣れていた、ということなのかもしれない。

 紅音は優姫の元によって、背中をぽんとさわり、

「顔上げて」

「…………ごめんなさい……どうしても、言えなくて」

「いいんだ。だからさっきまで様子がおかしかったんだな?」

 無言の首肯。それが真実だ。

 紅音は語りかける。

「大丈夫だ。優姫は俺のためを思ってくれたんだよな?それで十分だ。な?」

 優姫は再び頷く。その目は既に少し湿り気を持っていた。

 紅音は立ち上がり、

「何しに来た」

 いろはに語り掛ける。

 問わなければならない。そして、事の次第によっては糾弾しなければならない。例え相手が誰であろうとも。

 いろはは申し訳なさそうに、

「何しに来たって……そんな、驚かそうとか、そんなつもりで来たんじゃないよ。ただ、単純にどうしてるかなって……」

 余計なお世話だ。

 そう言ってやろうかとも思った。

 ただ、そんな単調で薄っぺらい感情の吐露は意味が無いことも知っていた。

 だから、

「……優姫」

「な、なに?」

「悪いけど、相手してもらえるか?お兄ちゃんはちょっと、用事を思い出したから」

「用事……?」

 疑問を抱える優姫。そんな彼女を背にして紅音は、家を背にして歩き出す。

 そんな背中にいろはが、

「待って。どこにいくの、こんな時間に」

 またか。

 まだ、そんなことを言っているのか。

 紅音は振り返らずに、

「そんなものを説明する義務はねえよ」

 いろはは全く状況がつかめないような塩梅で、

「そりゃ、無いかもしれないけど……教えてよ、心配になるじゃない」

 うるさい。

 うるさいうるさいうるさい。

 耳障りだ。

 紅音は質問には一切答えずにその場から走り去る。その間、背後からしていた、どこにでも転がっているようなワードの組み合わせを、紅音は右から左に聞き流していた。


               ◇


「…………ここまでくれば大丈夫、か」

 一切振り返らず、わき目もふらず、信号すらも無視して車に轢かれそうになりながらも、紅音は走り続けた。「死にたいのか!」そんな怒声を聞いたときは「そんなに殺したいなら殺せばいいだろう」とも思ったが、流石にそこまでの度胸はないらしい。当たり前か。誰だって殺人者にはなりたくない。責任の所在が100%相手にあろうとも、殺人は殺人だ。

 立ち止まった紅音は、ポケットから取り出したスマートフォンで、優姫に連絡を入れる。


「悪い。少なくとも今日一日はどっかで時間潰す。多分、俺がいない方が面倒なことにならないと思うしな。迷惑かけるけど、一つ貸しってことにしておいてくれ」


 返事はすぐに来た。


「了解しました。深夜まで起きてるので、何か必要なものがあったら言ってください。明日までに用意しておきます」


 ありがたい。その必要が生じるのかは分からないが、もしかしたら、長期戦になるかもしれない。そうなればある程度持ち出しておきたいものはあるだろう。

 紅音は「サンキュー」とだけ返してスマートフォンをしまい込み、一つ、ため息をつく。

「さて、これからどうしたもんかね……」

 そう呟いて、既にすっかりと暗くなった夜空を眺めていると、

「あら?もしかしてそこで黄昏ているのは……西園寺さいおんじ?」

 まただ。

 耳に覚えのある声がする。

 しかもこれは、

「…………佐藤(さとう)……陽菜(ひな)……」

 そう。

 忘れることなどありはしない。紅音のライバル……違った、噛ませ犬こと佐藤陽菜その人ではないか。

 ただ、その様子は普段とは大分違う。

 この時間だ。制服姿でないのはいいだろう。ただ、上下ジャージというのはどういうことだ。それに眼鏡。赤い縁の目立つもの。そんなもの、普段は掛けていないはずだ。

 金髪も後ろで一つにまとめあげて、ポニーテールのようになっている。いつもの彼女から漂う高慢なお嬢様然とした雰囲気は一切なく、どちらかと言えば没落貴族という表現の方がふさわしい気がする。ここまで来ると金髪のほうが逆に浮いている。

 陽菜は紅音のことをまじまじと見つめ、

「あの…………失礼ですけど、何をしているんですの?」

 はて。

 何と答えるのが正解なのだろう。

 一応、着替えだけは済ませているので、「野球の練習をした帰りです」という感じはしないはずである。

 ただ、そのせいで目立った証拠らしい証拠はなく、陽菜の目からすれば「何故かこんな時間に学生服のままで駅前の広場で何をするわけでもなくぼーっと星空を眺めていたことになる。

 それは確かに「何をしているんだ」と問いたくもなるだろう。だって、当の本人からしても疑問だもの。何してたんだと思う、俺?

 ただ、陽菜にそんな問いをぶつけるわけにもいかず、紅音は、

「暇つぶしだよ、暇つぶし。夜空ってほら、眺めてると良い暇つぶしになるんだよ」

「こんなに曇っているのにですか?」

 見上げる。

 なるほど確かに曇っていた。そもそも都会の夜空というのはそんなに綺麗に星が見えるものでもなければ、「ほらごらん、あれが春の大三角形だよ」などと知識をひけらかすことが出来るようなものでもないわけだが、そんな都会の空は完全に曇り散らかしており、星らしい星も見えなければ、月の影も見えやしない。織姫と彦星もびっくりである。

「…………曇り空ってのも良いもんだろ?」

「……………………どうしたんですの、あなた?」

 駄目か。

 こう良い感じに「ロマン感じてますよ」という雰囲気を出して、「まあ、たまには曇ってて何も見えない夜空も良いものですよね」と言わせる算段だったが、駄目か。まあ駄目だよな。

 紅音はため息一つ吐いて、

「ちょっとな。時間を潰さなくちゃいけなくなったんで、どうしたもんか考えてたんだ」

「時間を……ですか。ちなみにどれくらいですか?三十分とか一時間でしたら、買い物に付き合っ、」

「一日」

「は?」

 は?と来たか。

 しかも結構ガチトーン。君、素の声はそんな低いのね。普段は作ってるのか、声。

 ただまあ、その反応も分からなくはない。実際、紅音が陽菜の立場だったとして、その回答が返ってきたら、元からおかしかった頭がついにぶっ壊れてしまったのかと心配するところだ。

 と、まあ、そんなトンデモ回答をそのまま放置するわけにもいかないので、

「ちょっとな。家に帰るわけにもいかないんで、一日ネカフェにでも行って時間潰そうかと思ってる」

 幸いにして、駅前には最近オープンした、ちょっとこじゃれたネットカフェがある。常々興味はあったものの、「自分ちから徒歩圏内なのに、行く意味あるか?」という疑問が常に脳内で邪魔をしてくるため足を運んだことは無かったのだ。良い機会だ。家に帰れないのであれば口実としては十分だろう。

「と、まあ、そんなわけだから、俺は行くわ。佐藤もほら、早く帰らないとレ○プされるぞ」

 と、小馬鹿にし、勝ち逃げのような形でその場を去ろうとしたのだが、

「お待ちなさい」

 引き留められた。

 しかも手まで握られた。

 紅音は振り返って、

「何?まさか、夜道が怖いから家まで送ってほしいって?」

 適当に受け答えする。ところが、

「夜道が怖いわけではありませんが……」

 こほんと咳払いし、

「帰るところがないのならば……あなた、家にきませんか?」

 とんでもない提案をしてきた。あの、冗談だったんですけど。


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