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くじけやすさとか、こじれやすさとか、いじけやすさとか
「どーせ自分なんて出来ない」という思いが自分の根っこにあることが分かった。これも「となりの雑談」のおかげで気がついた。サクちゃんありがとういつもお世話になってます。
諦めやすい、やり切る事ができない。
希望の持てなさ、立ち直りの悪さ。
気質ももちろんあるけど、育つ段階で周りの人に受け入れてもらえた環境だったかどうかも影響する。
周りの大人の気持ちの余裕があるかどうかも関係する。
経済的に、精神的に余裕があったかどうか。
お金の無さは単純に気持ちに余裕が持ちづらくなる。
人に十分に受け入れてもらい慰められたら自然とその配慮もいらなくなる。それが満たされる加減も人によりけり、か。
気質的に自分で自分を立ち直らせる技術がある子もいる。
人からの「ヨシヨシ」は恥ずかしいからもういらないと思ったら、人に慰めてもらわなくても(依存しなくても)立ち直れる。
自然な精神的自立。
早ければ早いほうがいい、大人になってから立ち直る練習をすると習得までに相当時間がかかる。
結局、ものや出来事の捉え方である認知の違いと、土台が頑丈だと立ち直りや気持ちの切り替えが早い。
土台は愛着と情緒の安定。
気質と育った環境が関係してくる。
気質はその子の思い込み具合にもよる。
愛着は後からでも取り戻せるし、愛着関係を作る相手は親じゃなくてもいい。
私の日々ははたから見ると充実しているように見えているとよく言われる。
「アタシは充実してます」と、そのように話す技術が身についてしまっているのだとも思う。
でも自分としては充実しているとは言えない。
自信の無さが理想や目標を高く設定しすぎる思い込みになっているのか、なんだか満足していない。
これって本当に周りから見たら「何をそんなにウジウジするのか」と思われることなんだろうな、と思う。あと何を贅沢言ってるんだとも思われるんだろうな。あら、どう思われるかを気にしすぎだわ、なんなん。
「人生は充実してなきゃ!」みたいな思い込みも強い。
きっとまだまだ他人軸、一般論を信じているからその通りになっていない自分にダメ出しするんだろうな。
ああなんと生きづらい。
まだ自分の受け入れていない面が多くて自分が嫌いなのだろうな。だから自信がない。マイナス思考に飲まれてしまう。
この間友だちの娘が留学先から帰ってきたので空港まで迎えに行った。
その帰り道、留学先での話を聞いたのだが、思い描いていた生活とは違ったらしく、ホストファミリーとその交換留学のパートナーは人は良かったのだが学校や家で周りとの仲介役をあまりしてもらえなかったらしく、孤立していて毎日苦しかったと話していた。
ホストファミリーの家では食卓を囲むことはなく各々が自分で食べるので交流する時間もなく、学校でも放ったらかし状態だったので、自力で交流するしかなかったと。
他の留学生の子たちは配慮され、周りとの交流やファミリーともやりとりが沢山あったと聞いたとの事。
「いやその状況でよく頑張ったね、当たり外れあるって言うし、クソだったねえ」と話すと、
「でもね、その状況を悪い方に認識すると余計に辛くなるからそう思わないようにして最後まで過ごした」と17歳。
わあ、クソって言ったオバチャン恥ずかしいなと思った。
17歳にしてこの自己切り替え認知。すごい。
これってどうやって備わるんだろうか?
私が同じ状況ならやめて帰ってくるかも、と思った。
現に留学をやめて帰って来る子もいるし、合わないことを歯を食いしばってやり続ける必要は無いので、その判断も大事。
彼女の気質?育ち?正解は無いけど、こういう認知の差が個人差で価値観となっていくんだろうなと改めて思うし、この捉えの違いで人生観が変わってくるんだろうなと感じた。そしてやりきる力。粘り強さ。
楽しめるか否か。楽観か悲観か。
損得、勝敗、優劣ではない。
みんなこんな風に自分で自分を励まし立ち直らせて前を向くんだと最近分かった自分にはまた新しい刺激だった。
本当に、最近分かったのだ。「自分で何とかする」がピンときてなかった。
今までこのくじけた自分、立ち直れない自分を誰かに何とかしてもらおうと、友だちに会って話を聞いてもらうのに尽力していた。
でもやっぱり頑固で、思考を変えられないから無限に聞いてもらう、慰めてもらう必要が出てくる。
誰かに何とか変えてほしいから、自分でぐるぐる思考をやめようとしない。
同じ話で悩みが変わらないから、そのうち友だちも聞いてくれなくなる。
自分が逆の立場ならそうだよな、と思った。
この話になると自分の母親が重なる。
母は慰めてくれる人、話を聞いてくれる人を無限に探さなければならない人だった。「自分可哀想劇場」を辞められない人だった。
そしたら誰も居なくなった。
ああ、自分も同じことをしている、同じことになるんだろうか、という呪いの言葉が自分を傷つけ追い込む。
でも最近はこれにツッコむ自分が出てきた。
「あ、またマイナス思考に飲まれてんぞ。やめとけやめとけ、落ち込むだけや。やめろやめろ」と自分ツッコミ。
脳内の思考は他人にはどうしようもない。
開頭手術をしても治るものでもない。
薬を飲んでも変えられない。
それでもいつもこの思考にたどり着くから呪いという思い込みは本当に厄介。いつもこの思考回路に迷い込む、ああやめたい。
しかし昨日、昔のいろんなことを話せる関係性になった父が「あなたはお母さんとは違うのに(いつも自分の思考や育ちの原因を結びつけるね)」と言われハッとなった。
結局自分の気質の部分もすべて、母親の依存の所為にしたかったのだ。
「あなたの気質や思い込みもあるよ」と言われると怒りとなり「いやあの母親の所為だ、家庭環境の所為なのに!」と自己防衛、言い訳したい自分がいるのだ。自分の気質を受け入れるのが嫌だったんだろうな。
そして「やりきれない、諦めやすいあなたもダメじゃない」と言った父。わああ、やっぱりまだまだ鬼コーチがいて、自分で自分に✘を出していたなと気づき焼肉屋で号泣。あはは。
育ちや母親の依存の所為にすることで自分の思いを昇華したり、誰かを悪者にすることで自分の所為ではないと自己防衛したかったんだろう。前述した「あきらめやすさ、やりきれなさ」も自分の育ちの中で母親の所為にしたかったと思う。
でもこれも全く自己防衛にはなっておらず、ただ単にそこにしがみついて動けなくなっていることに気がついた、アタシえらい、アタシすごい。
結局共依存というのはお互いにそこにしかしがみつけないから成り立つ関係性であって、そこからお互いに「しがみつかれて迷惑だ」と思っている状態からさらにどう気づけるか、ということなんだなと思う。
親子関係の共依存は、子どもが産まれた時から親にそう刷り込まれるので、気付いた時には「こんな思いをさせやがって」と怒りになるんだが、相手の所為にすることで自分もまたそこにしがみつき依存していることに気づく難しさよ。
これはやっぱり誰かとの対話とかでしか気づくのは難しいと思う。
おおお、ここでもSpeak Yourself♡ありがとうナムジュン♡好き。
ああ自分もやっぱりそこにしがみついて固執していたのかと気付かされた。
許すとかではなく、捨てる、離れる、忘れる。人生は上書きだ。
「許す」と考えると相手が発生する。
そうじゃなくて、自分の思考から捨てるのだ。過去は変えられないから自分を変えていく。
ここも境界線だ。解釈を細分化していく。
すべての自分、すべてのお母さん、じゃなくて
依存されてた部分の自分、しがみついてきた部分のお母さん、さようなら。もういいです、アホらしい。
切り捨てていく。
「自分はこうあるべき」理論も捨てることで、弱い自分・出来ない自分も受け入れていきたい。それには自分を出す経験も必要。かっこつけなくていい、うまくやろうとしなくていいと自分と対話しながら。
そして何の因果か帰宅して付けた、普段あまり見ない地上波の内容が「家族って素敵」的な内容でさらに涙。
「Youは何しに」では家族ぐるみで付き合いを続けてきたカナダYouが自分たちの家族を初めて日本に連れてきたエピソード、「お父3」では娘が父を評価し、ほんわかやりとりが繰り広げられており、
今まで「家族ってなんなんや」と家族のままならなさや関係性の難しさで否定的だった家族の捉えは、本当は家族に憧れているんだという自分の思いも分かってきた。本当の思いに蓋をしてきたとつくづく思う。
人間、否定するものや攻撃的になるものに対しては実は憧れや劣等感の現れだということを本当に実感している。
そう言えば「人の事を自分の事のように喜んだり、一緒に気持ちが揺れたりするのもアナタの良さなんじゃないの」という事も言ってくれた父。すごいなあ、分かってくれているんだな。ありがたい。「でもそれで自分が削られるならバランスを取る必要があるね」と昨日話したんだったな。
良くも悪くも背負おうとする境界線の無さを練習していこう。感受性はプラスに向けよう。
アタシの目と脳と耳と心は、楽しいことに使おう。
「やりきれなさ、諦めてしまう」という私の根っこの思考も、去年の「ひとりアメリカ推し活」でちょっと変わったと思う。
「絶対に無理だと思っていることの中に本当にやりたいことがある」を実体験出来たのだ。チケット買ってから2ヶ月間ビビリまくったけど、決めた自分エライ、行った自分スゴイ。
来年の目標は「わたしは幸せになる」
推しも全員兵役から戻って来るし。
私は自分で自分を立て直す練習をしながら、自分で自分を幸せにしていくのだ。