【短編小説】沈む街の水族館

「まもなく、湘南台行きの電車がまいります」

男は急ぎ足で桜木町駅の階段を上がる。
帰りにコンビニに寄って夜飯を買ったせいで21時7分発の電車に乗り遅れそうになる。
明日はデートの約束がある。いち早く自宅に帰って体を休ませたいという気持ちが披露した体に鞭を打つ。
電車の出発音が鳴る中、ギリギリで電車に飛び込む。乗客の冷ややかな目など露知らずまっすぐに椅子へと向かっていく。

空いている席に腰を落ち着かせゆっくりと瞬きをする。街頭に照らされ青く透き通った外の景色を眺めているとデスクワークによって溜まった目の疲労が回復する気がした。
窓ガラスの隅の方にはびっしりと苔が着いている。
きっと清掃員が隅の方を掃除することをサボったのだろう。
苔むした窓ガラスはまるでフォトフレームかのように永遠の青を捉え続けている。


男の家は駅から5分ほどのところにある。閑静な住宅街という言葉がよく似合うところである。
コンビニで買った夜ご飯を食べながら家へと向かう坂道を下る。
坂道の脇には伸びきった海藻が水の流れでユラユラと怪しく揺れて月光に照らされる。
こんな何気ない景色を美しいと思うなんてよっぽど疲れているのだろう。


電気をつけぬままベッドに横たわり手探りでエアレーションのスイッチをいれる。
エアレーションは泡をだして酸素の供給を始める。
男はエアレーションを開発する会社に勤めている。
最近は若者に向けて斬新で洒落たエアレーションを開発しようという社長の提案の元、光らせてみたり、インテリアに組み込んでみたりと様々なエアレーションを開発しているが、どれもいまいち社長へのウケが悪い。
裏では社員から若者に向けた製品をおじさんの社長に見せても仕方がないという愚痴をよく聞く。
男としてはエアレーションなんて酸素さえ出て故障しなければなんでもいいと思っているためいまいち今の仕事には熱が入らない。
明日は朝が早いので寝なければと目を閉じる。
エアレーションのブクブクといった音が心地よく男を眠りの世界に漂い込む。


「横浜駅の珊瑚礁前で集合ね」
携帯の通知音で目を覚ます。
朝の陽光が部屋の中にさしこみ、プランクトンがキラキラとした粒子状に見える。
向こうからの提案で水族館でデートをすることになった。なにやらクリオネとデジタルアートを組み合わせた展示が人気で見に行きたいそうだ。
水族館自体にはあまり興味はないが行く場所を考えあぐねていたため助かった。
横浜行きの電車にこれまたギリギリに乗り込む。


土曜の横浜水族館は家族連れやカップルやらが多く喧騒としている。水族館という落ち着いた空間との対比に少し不快感を感じる。
素直にはしゃぐような気持ちにはなれず小さな水槽の中を泳ぐクリオネをぼーっと眺める。
クリオネは水槽の中で両手を一生懸命に動かしているが、その場に留まり続けることで精一杯だ。水槽に設置されたエアレーションが深海をイメージする深い青色に光る。

「ママ!おさかなさんはいないの?」
隣でフンボルトペンギンの親子の会話が聞こえる。
「おさかなさんはね、水族館にはいないのよ」
フンボルトペンギンのお母さんが優しく語りかける。
「えー、なんでなの?」
「それはね、おさかなさんには心があるからよ。フウタだって水槽の中にずーっといたら退屈で嫌しょう。」
フウタくんは納得がいってなさそうな顔で首を傾げている。
「クリオネさんも一生懸命泳いでるのになんだかかわいそうだね。」
お母さんは困ったような顔をしながらフウタくんになにやら説明をしている。


心とはなんだろう。
クリオネには心がない。クラゲには心がない。
ペンギンには心がある。さかなには心がある。
水族館にどの生物を展示してよくて、どの生物を展示してはいけないかを生物が判断できるものなのだろうか。
下の方に落ちないように泳ぐクリオネは男の目には心がないようには見えなかった。


「見てみてー!こっちにクラゲいるよ」
彼女の嬉々とした声によってセンチメンタルな世界から引き戻される。かわいいとはしゃぎながら8本の足を使って写真をパシャパシャと撮っている。
やれやれとエラから深い息をゆっくりとはいて彼女の元へと泳いでいく。

エアレーション: エアポンプを使って水槽に空気を送り出す装置。別名ぶくぶく。

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