▼1.失われかけた山姥切伝説とその再発見
1-1.杉原祥造刀剣押形「山姥切由来」文書
刀剣「山姥切国広」の文化財指定より遡ること42年前。
大正9(1920)年にその名の由来を伝える文章は確かに存在していました。
明治~大正期の刀剣研究家・杉原祥造氏。彼は当時山姥切国広を所有していた三居家で実物を見て押形を制作し、三居翁なる人物より聞いた山姥切国広にまつわる物語を「山姥切由来」として記録しました。押形には大正9(1920)年と記載されており、これが制作時期であると推察されます。
そして押形は杉原氏の没後、弟子である内田疎天・加島勲両氏の手によって編纂した「新刀名作集」に収録されました。
このような文書が存在するにも関わらず、なぜデータベースには「山姥切のいわれは不明」と記されているのでしょうか。
山姥切国広を國廣の最高傑作と評価したのは新刀研究の大家・佐藤寒山氏です。そんな彼が自ら「国広の決定版のつもりで書いた(「寒山刀話」p
132)」とする本があります。「国広大鑒」といい、その本には山姥切国広はこのように紹介されています。
佐藤氏は山姥切国広を見たことが無かった(当時の刀剣界では山姥切国広は関東大震災で焼失したという噂が事実として信じられており、佐藤氏もその一人だった)ため、この本では「新刀名作集」所載の杉原押形を元にする形で解説文が書かれています。
しかしながら。
よく調べてみると、この押形の引用元って、もしかすると「新刀名作集」ではなくて、それより後に出版された「新刀押象集」ではないかと思えるんです。
1-2.新刀押象集においてこぼれ落ちた情報
先発の「新刀名作集」では存在していた「山姥切由来」等の文章群がなぜかごっそり削除されているのがわかると思います。ちなみにこの「新刀押象集」の著者は加島勲氏と内田疎天氏なのですが、その序文にはこのようなことが書いてあります。
つまり、著者らは「先人たちの記録を参考にして長所を取り入れつつ、芸術的ながらも要領を掴んで分かりやすい面白い刀剣書」を目指していたという事をうかがい知ることができます。原拠を正確に引用・検証し、考察を加えていく令和現代のアカデミックな研究調査方法とは異なる観点をもって制作された書物と言えます。
ですので「新刀押象集」に杉原押形を収録するにあたり「山姥切由来」等の文章を削除したのは、序文でいうところの「劔書の理想的書き方」にそぐわなかったから……かも……?
ここで、山姥切国広の発見に関係する人物たちの情報を、年表形式に整理してみます。
1-3.山姥切国広&関係する刀剣研究家の情報年表
佐藤氏は、山姥切という号はもともと国広の刀のものではなく、本歌である長義の刀のものだったのではないか、と断定を避ける形で考察を加えました(堀川国広とその弟子)。
なぜか。
佐藤氏は生前に「山姥切由来」文書を発見できなかったからではないでしょうか?
これは筆者の推察に拠るところが大きいのですが、加島・内田両氏が杉原押形の文章を一部削除して自著に掲載したことで、「山姥切由来」の存在が佐藤氏含む後世の研究者にうまく伝わらなかったかもしれません。
佐藤氏は「新刀名作集」にある杉原押形を元に「国広大鑒」の山姥切国広の項を執筆したそうですが、崩し字の文書を見落としたか、解読できなかったか、あるいは、見たのは「新刀押象集」の押形だったのに誤って「新刀名作集」と記載したか……
理由は不明ですが、とにかく何らかの理由で「山姥切由来」を見つけられなかった。
国広の刀が山姥切と呼ばれるに至った物語。それを知ることができなかった刀剣研究家たちは「信州」「山姥」などのワードから、戸隠で鬼女を斬ったという「紅葉狩」の物語を連想し、長義の刀に託したのではないでしょうか。
「山姥切由来」は佐藤氏が他界する3年前、刀剣研究家の福永酔剣氏が再発見して発表しましたが(日向の刀と鐔)、昭和時代当時、SNSは存在せずパソコン通信も一般化されていません。見つけたものを全国の愛刀家たちに共有するのは現代よりもはるかに困難を極めます。
したがって、写しの刀に新たな価値を見出し、文化財登録へ並々ならぬ貢献をした佐藤氏は「山姥切由来」の存在を知らぬまま、もしくは最新研究としてまとめる前にこの世を去った……かもしれません。
こんにちの文化庁のデータベースの解説文は福永説ではなく、佐藤氏らの説を採用しています。刀の名の由来のみならず、来歴に関しても同様です。杉原氏が三居翁なる人物から聞いて押形に記録したものと、井伊家の旧家臣家の人が本間薫山氏に山姥切国広を持ち込んだ際に語った話(寒山刀話)、2つの来歴のうち、データベースで採用されているのは後者です。
とはいえ、古い記録が新発見されたとしても、その情報が必ずしも正しいとは限らないんですよね。山姥切国広の来歴はまだまだ研究の余地があると思います。
というわけで、現時点でもっとも古い山姥切国広の名の由来は、大正9(1920)年に制作されたと思われる杉原押形に記載されていたが、後世の刀剣書では削除されたことがあり、文化財指定から13年後に福永氏が自著の中で改めて発表した、という変遷をたどっていることがわかりました。
問題はここからです。
杉原押形よりも100年前、江戸時代後期の秋田県で非常に似た物語があったことを発見しました。
▼2.東北の山姥・山姥打ちの刀
「雪の出羽路 平鹿郡(ゆきのでわじ ひらがぐん)」という書物があります。江戸時代後期の本草学者である菅江真澄(すがえ ますみ)が秋田藩の公的事業として編纂を行った地誌の一つです。文政5(1822)年の奥書を持つ直筆本は、秋田藩の藩校である明徳館に献納され、1991年に「自筆本真澄遊覧記」の一つとして国の重要文化財に指定されました。
この中に山姥切国広の物語と非常に似ている奇談が収録されています。
2-1.遊士権斉と山姥の伝説
2-2.現存する遊士権斉塚を見に行ってみた
旧角間川村、現在の秋田県大仙市角間川町地区に「遊士権斉塚」と刻まれた石碑があります。
石碑がある場所は権斉が弟子になったという浄蓮寺(同名の寺院は角間川町地区にあります)ではなく、新町稲荷神社という神社の境内です。周辺で「石碑イコール権斉の墓石」を証明できそうなものは見つけられなかったのですが、石碑の右側に「文政六■■七月」と年紀のようなものが彫ってありました。
池田光氏の先行研究(※1)によると「文政六癸未七月黒丸惟孝」と刻まれているようです。彫られた年紀を素直に信じるとすれば、この石碑は角間川村で代々首長を務めた黒丸家の七代目・黒丸惟孝が関わって文政6(1823)年に作られたものになります。
ただ、菅江真澄が「雪の出羽路」を完成させたのはその前年のことですので、やっぱり「遊士権斉塚イコール権斉の墓」とは言い難いように思います。
権斉が肥後守國康の刀で山姥を打ったという内容の奇談と、山姥切国広の逸話はかなり類似性が高いと思われます。
したがって、筆者は「山姥切国広の逸話は実際に起きた出来事を脚色したものではなく、露見してはならない真実を隠すために作られたカバーストーリーでもない、先行作品がある創作物語」ではないかと推察します。
離れた土地で似たような物語が記録され、そしてそのタイミングに100年近くの隔たりがある……そこには2つの物語を繋ぐ何らかの媒体があったのではないでしょうか。
……という仮説を立てたところでいったん本稿は〆たいと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。
なお「山の中で妊婦と赤ん坊を食った化け物に刀で立ち向かう」話ですが、菅江真澄の記録よりも古い記録が存在します。江戸時代初期の文学に類話が複数あるのです。
そちらの調査結果については冊子版「化け物斬りの断章」に収録しました。2024年1月頒布予定の新刊にも収録します。
▼本記事における参考文献
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