私が私であるために・・・
はじめに
この投稿は自分の脳内を考えを整理するために書いたものです。
気がついだら、4000字を超えていたので、読んでみたいと奇しくも思って下さった方は、お時間のある時に読んでいただけると幸いです。
独り言は多いかも・・・
私はふと一人になった瞬間に、心の中で自問自答していることが多い。(そして、それが口から溢れでることもしばしばあるw)
「なんで、今ここにいるんだろう。ここにいると選んだから。何で選んだのだろう…し〜らない。」
「何がしたいんだろう。うーん、わからん。でも、物作るのは好きだよな・・・」
「今を生きている意味は何だろう・・・。」
「私らしさって何だろう・・・よくわからない。でも、ごちゃごちゃと考えるのは好きだよね…」
などなど。自分のまだ見えていない部分に対して何かヒントはないか・・・と度々どこかに意識を飛ばしている(半分くらいだけど)。
ごく稀に何か答えらしきものが湧いてポンッとフィットすることもあるけど、大抵は答えが出ずに保留となる。
そして、答えが浮かぶまで時間をあけて繰り返し問いかけるんだと思う。(答えがいつでるかはわからないけど…)
アイデンティティーって何だろう
たぶん、アイデンティティーの確立と深堀のために向き合っているのかもしれない。
アイデンティティー(identity)
個物や個人がさまざまな変化や差異に抗して、その連続性、統一性、不変性、独自性を保ち続けること。
コトバンクより引用。
https://kotobank.jp/word/アイデンティティ-22669
私の根底にある変わらない部分は何か。
その片鱗はどこに現れているのか。自分が生きていく上で当たり前になっていて気が付きにくいことに気が付きたいし、知りたい。そして腹落ちさせたい(たぶん腹落ちは気付いた時点ですると思う)。
発する言動や想い、行動に至るまでのエネルギーの素は、素を辿っていくとあるものにたどり着くと思う。
それが何なのか知りたい。辿り着くあるものを認識しているかいないかで、これからの道が変わってくるような気がするから。巡りつく先は同じかもしれない。けど、その過程が感じることがその量が違う気がする。私はたぶん欲張りだから、より多くのことを感じたいし、知りたい。そして、理解したい。(もちろん、必要なことならばという前提であるけど。)
理解の幅を出すためには?
人には理解できる段階ががあると思っている。一つの言葉でもその受け取り方はその人によって異なる。
何故だろう…
それは、その人の考え方や意識が向いている方向、どう受け取りたいかの願望や経験、持っている知識の量とかで変わってくるから。
例えば、極端な例でいくと、
仕事で精通している人には1を言ったら10理解してくれるけど、新人には1から10まで説明しないと理解してくれない。
それは、知識や経験、そのことに対する想像力の違いなんじゃないのかな…と思っている。
例え、その仕事の経験がなくても(他の仕事での経験を)想像力を働かせて、何が必要かを予測することもできる人はいる。
その人がなぜできるのか…
たぶん、物事を切り離して考えていないから。本質を理解しており、他のことへの応用ができるからだと思う。
骨組みが(ほぼ)同じで装飾が違うだけだから、骨組みから学び直す必要がない、装飾をどう行うかを知ることができれば対応できる。
基本的に基礎となっている骨組みはどこもそこまで大きな違いはないんじゃないかなぁと考えている。
→植物や動物には体を支える幹や骨があるし、体の中を循環する管があり、栄養を循環させている。空気や栄養を取り込んだり排泄したりもしている。
→細かく見ていけば違うけど、大枠を捉えていくと非常に似ていると思う。
ただ装飾されているものが違いすぎるから全くの別物に見えて、物怖じしてしまうことはあるけど…
大雑把に考えると、ビックバンから地球は生まれ、微生物がそだち、今にいたる。始まりはたぶんみんな同じ。
学問だってそう。
だって、人間が考えて作り出したものだから。
現代はより専門性を持たせるために細分化されてたくさんの分野があるけど、
元は人間がより豊かになろうと始めたものだと思う。
その骨格が幹がどこにあるか、何なのかを念頭において、他のことに枝を伸ばしていく。
幹が同じだから、
素となる種が同じだから、
どこかで繋がっていると感じているから、
それが何かを理解していたら、ある程度の予測ができると思う。
だから、その骨格を幹を素を知りたい。
今、私を構成するモノは何か、その中で共通しているモノは?その素は?
自身を多角的に客観的に主観的に見ていくしかない。
その理解が深まるにつれ、腹落ちできることが増えていくと思う。
理解できるタイミングがある
私の中でアイデンティティーで浮かぶのは、この曲。
サカナクションのアイデンティティー。
この曲は何回も何十回も聴いているし、歌うこともできるけど、歌詞カードを読んで2番目の歌詞の意味が理解できなかった(私の中に入って来なかった)
(→最近、気づいたら理解できるようになっていた。)
何言ってんだこいつ…と思うけど、私の中ではしばしば起こる。
歌詞以外にも本とかでも…読みたくて買ったのに読めない。
読んで意味を理解しようとすると何故か上滑りして、頭の中に心の中に意味が入ってこない。
何かに惹かれて買っても何故か読む気が起きなかったり、読んでも内容が入ってこない。でも何か自分に必要という確信があるから、理解できなくても、読む気が起きなくても、タイミングが来るまで待つしかない。
そして、理解できるタイミングが来るとすんなりと、今までの感覚はもやもやは上滑り感は何だったんだー!!!と思うくらいすんなりと腹落ちする。
自分にとってのいいタイミング。
それは、精神的な成長や心の準備、あと何かができていないと巡ってこないと思っている。
今ココ!というタイミングをいつ感じるか。
タイミングがきたら自然と動き始めている。
ごちゃごちゃと理由をつけて考えている・迷っているという場合は、タイミングではない。
感覚(たぶん心の声)が最優先。
自分にとって大切なこと
Q:私が私で在るために必要なことって何だろう?
A:何かに没頭すること。誰にも邪魔されずにただただやりたいことをやり尽くす。
自分の場合。人との交流も大事だけど、それ以上に自分の時間が超絶大事。
たぶん、人の気配すら嫌なレベルw
実家暮らしの時はあまり自覚がなかったけど、一人暮らしを初めてから、あぁここは自分の自分だけの空間だ!と伸び伸び心を開放することができるようになった気がする。(いきなり声をかけられることもないし、気配を探らなくてもいいし、いきなり物音とかもしないし…と色々我慢していたことがあったっぽい 笑)
漫画を読んで、映画を見て、ストーリーにひたるでもいいし、好きなだけ泣いたり笑ったりするもよし!
ただひたすらに字を書いたり、絵を描いたり、何かを作ったり、瞑想したり、楽器を奏でたり、文章を書いたり、料理を作ったり、手芸をしたり・・・
他にもいろんなことがある。
そうして熱中していると、ある種ゾーンみたいなものに入ることがある。
熱中して何かをする自分と、それを俯瞰して、分析し、自身の中にあるものと結びつけて腹落ちさせていく自分。
今まで、言語化できていなかった感覚が、知覚できていなかった何かが形を持つような感じ。何かの繋がりを感る感じ。
あと、それとは別に、何か整う感覚。
心のざわつきが整理されたり、足りなかった要素が足されたり、有り余っていたことの余りがなくなっていたり、その"熱中"を通して過不足ない状態になっている…
気がする。
先日、8年くらい封印していた漫画を熱中して読むという行為の封印を解除した。
この行為は私にとっては諸刃の剣で、心が安定する反面、そのストーリーに引っ張られて、実生活が疎かになってしまう。
具体的には、続きが気になって、他のことに身が入らなかったり、ひたすら頭の中で印象に残った場面がエンドレスリピートしたり…と、
のめり込みすぎると社会生活の方が危うくなる自覚があったので、社会人になってからは封印を強めにかけていた。
でも、そうすると質の悪い睡眠みたいな感じで、大好きな漫画を読み終わった後の満足感や高揚感などの何ともいえない感じがなくなっていて、心の満足度的にはあまり良いものではなかった。
とある封印の解除w
解除した結果は案の定 笑
何だろう相変わらず続きは気になるし、なんかぽやぽやして、地に足がついていない感じがするけど、すごく久々の感覚と充足感☆!!!
そして、心の中の何かが整った感じがした。
漫画ばっかり読んでいた時期(主に中学・高生の時)以来の何かを味わったし、なぜ、そんなに夢中になって漫画を当時読んでいたのかの理由を思い出した。
たぶん私は学校が嫌いだった。苦しかった。でも、当時はそこを自覚すると学校に行けなくなると思って目をずっと逸らしていた。(自覚したのは社会人になって数年働いてから)
そして、性格上(融通がきかないため)サボることもできず中高と皆勤賞!
学校に行く中で救いだったのは当時熱中していた吹奏楽部。ホルンを奏でに学校に行っていたようなもの。そして帰りに、本屋に寄り道して立ち読みをする。それで、精神を保っていたような気がする。
それに、休みの日は古本屋でずっと立ち読みしていた。漫画というものに魅了されて、ワクワクがずっと続いていたから…という面も多大にあるけど、裏には心の安寧を保つための意味合いがあったと今振り返ると思う。そして、いろんな価値観の吸収もあったかも。
封印を解除してみたら・・・
乗り越えた過去の記憶と感覚が蘇り、今との差を(成長を)確認できた。
ポヤポヤする感じも、心のバランスのとり方次第。自分のスイッチがどこにあるかを見失わなければ、ちょうど良い気分の切り替えにもなるし、新たな何かの発見にもなる。
「馬鹿と鋏は使いよう」
その時の感覚をどう解釈するか、どう次に繋げるかはその時の自分次第。だからこそ、何が最善かを冷静に判断できるように在ろうと思った。
結論
自分にかけた枷を外して熱中することは、新たな発見につながるし、過去からの成長を知ることにもなる。
私にとって漫画は心の処方箋だった(ただし、諸刃の剣の要素もあるけど、)
→諸刃の剣にするかどうかは自分次第だった。だからこそ、
迷子には気をつけよう。
理解できることはその時そのタイミングによって違ってくるから、その瞬間に感じたことをそのまま受け取ろう。
いろんなことを発見していこう!!!!!
以上。
この長文を最後まで、読んでいただきありがとうございまいた。