「シフトアップ」。聞きなれない言葉に隠された、“やりがい搾取”。
いま、私の目の前にいる男性(以下、Sさん)は今日(取材時)、住所不定・無職になりました。
福岡県の博多出身。
シングル家庭で育ち、母に負担をかけないようにと二人の兄と同様、18歳で独立します。さまざまな企業の営業代行を行う会社の福岡支社で2年働き、約9カ月前に東京支社に異動になったそうです。
引っ越し代や新しい住まいにかかる初期費用を母親に頼るわけにはいかないため、異動になった営業所近くにある家具家電つきの寮に入ることにしました。
東京に知り合いはゼロ。でも、不安より希望の方が大きかったそうです。
東京でこれから待ち受けている未来は、自分の頑張りしだいで輝かしいものになる……。
そう信じて疑わなかった彼が、26歳で住所不定・無職になったのはなぜなのでしょうか?
心療内科で払えなかった150円
私がSさんと出会ったのは、数か月前のこと。友人の心療内科通院に付き添いでいったとき、処方薬局の会計窓口で、お財布の小銭入れのなかを必死で探っている男性がいました。それがSさんでした。
「すいません、150円足りないんで次回でいいですか?」
と言っていました。
咳が苦しそうで、熱もあるのでしょうか。ぼんやりとした目と少し赤い顔をした彼は会計窓口で「今日払ってほしい」「お金が足りないけど、体調が悪いので、薬を飲みたいんです」の問答を繰り返していました。
見かねて、私は窓口まで歩いていき言いました。
「私が150円払うので、彼に薬を処方してあげてください」。
必ず返すので、連絡先を教えてもらえませんか。
そう彼に言われて、連絡先を交換。数日後、返済を約束した会社の給料日、150円より高い交通費をかけて、私にお金を返しにきました。
東京に会社の人以外の知り合いはおらず、友だちもいないという彼と私は連絡を取り合うようになりました。
その直後のことでした。
私は彼から耳慣れない言葉を聞くことになります。それは「シフトアップ」という言葉でした。
彼は言いました。
「今月は休日を全部シフトアップして、売り上げ出して昇進したいと思っているんです」。
シフトアップ。聞きなれない言葉です。
しかも、休日全部という言葉と絡んでいる。これはもしかして、と思い聞いてみました。
「シフトアップってなに? 休日全部ってどういうこと?お休みないの?」
寮はマンションの1フロワーに5人が同居、テレビもなし
彼の答えをまとめると
・休日にあくまで自由意志として会社に出ること
・シフトアップをするとそれだけ営業の売り上げをあげられるので、翌月のお給料に反映されるインセンティブが上がり、営業所全体で行っている人が多い
・早く出世している人はシフトアップをしていると、配属時に上司から言われた
・あくまで自由意志なので、会社は関知していない。だから休日出勤手当も出ないし、代休の対象にもならない。シフトアップ時にかかる交通費はもちろん、その他経費も出ない
とのことでした。
法律的におかしすぎることが満載です。
「Sさん、これかなり法律的にアウトだと思う」と伝えると、彼はとても不思議そうな顔をしました。なぜなら、シフトアップは彼の所属している営業所の中では頑張っている人である証であり、上司から可愛がられるための魔法の言葉だから。
それ以来、私はこれまであまり彼に聞くことがなかった、仕事のこと、会社のこと、寮のことをいろいろ聞いてみることにしました。
まずは住んでいる寮について。
杉並区にある社員寮は、マンションの1階にある5DKの部屋で、5人で住んでいるとのことでした。各部屋の扉は鍵付きではないので完全なプライバシーは守られません。かつて、寮内で盗難事件が起き、懲戒解雇になったことがある人もいるとか。寮費として光熱費込みで毎月6万円ひかれています。
6万円あれば、狭くてもプライバシーが保たれる場所に住むことができるのではないかと疑問を抱きますが、転居の初期費用に加えて、必要な家電を揃える余裕が彼にはないのです。寮にはテレビはないので、いつもスマホでYouTubeを見ていたといいます。
Sさんが引っ越しをしない理由はもうひとつあります。それは勤務時間と大きく関係していました。
退社は毎日、日付が変わるくらい。シフトアップをしてほとんど休んでいないので、営業所から数分のところにある寮に帰宅をすると、もう寝るだけ。体力的に辛くなり、シフトアップせず休むとしても、疲れ切っているから寝ているだけ。つまり「寮にいる=ほぼ寝ている」ため、寝るためだけの家を探すのがもったいないように感じられてしまうのです。
営業所から寮までは徒歩、十数分。入寮者は毎日、外回りから戻った後の営業スキルアップのためのトーク練習が義務付けられており、上司のサポートをするための資料作りを任せられます。歩いて帰れるから、帰宅時間は遅くなる一方。毎日深夜0時過ぎ、そのうち半分は2時ちかくに退社という勤務状況になっていきました。
どうしてこんなことになっているのか。これは私の推察ですが、会社からのPC貸与はなく、残業して終電に乗れなかった時のタクシー代は経費として認められていなので、上司は寮に住んでいる部下に資料作りを頼まざるを得ないようです。
支払われないお金は、深夜残業のタクシー代だけではありません。深夜まで働いているのに、残業代は一切支払われていません。先程のシフトアップでも書いた通り、休日出勤手当もシフトアップ時にかかった経費も支払われません。Sさんが給与として受け取っているのは、毎月12万円の基本給と前月のインセンティブ、そこから年金や保険料がひかれ、さらに寮費がひかれます。手元に残るお金は……。彼の労働時間の長さから考えると、少なすぎる金額です。
インフルエンザに一度もかかったことがなかったのに、月に2回は風邪をひきダウン
出会ってから、数か月。彼が「体調が悪い」と言う頻度が気になるようになってきました。
月に2回は発熱しダウンしてしまうので、会社を欠勤せざるを得ない状況に陥っていました。もともと風邪をひきやすかったのか、Sさんに尋ねてみたところ
「インフルエンザにもなったことないし、小・中・高校は無遅刻・無欠勤だけが取り柄だったくらい、風邪で休むなんてことなかったんですけどね。なんか、いくら寝ても疲れがとれないんです。26になって体力がなくなったんですかね」
という答えが返ってきました。
風邪で学校を休んだこともなかった彼が、月に2回も風邪をひき、発熱で欠勤を余儀なくされるようになった理由は明らかです。
シフトアップという会社が作った言葉をまるで自分の未来を輝かす魔法の言葉のように囁かれ、過重労働に陥っているから。
寝ても寝ても取れない疲れがたまり、体が悲鳴をあげているに違いありません。
欠勤はSさんの経済状況も圧迫します。彼の基本給は12万円。営業で売り上げをあげたインセンティブがないと、寮費をひかれたら途端に生活が立ち行かなくなります。
月に2、3日欠勤するようになると、営業成績にも影響します。インセンティブが減れば、お給料も減るので食費を抑えるようになります。疲労で悲鳴をあげる体はさらなる負担を強いられることになるわけです。
そういった経緯から、彼と私が出会ったとき薬代150円が払えないような状況になっていたのだと知らされました。
経済状況は一度狂い始めると、どんどん沈み込み、立て直しが難しくなります。Sさんの経済状況は、150円をきっかけに出会ったときから、どんどん悪化していきました。
自分の抱えている「おかしさ」に気づかせない、会社の罠
身体的に、経済的に追い詰められたSさんは、精神的にもじりじりと追い詰められていきました。このままでは、かなりマズイ状況になるのではないか。私は恐ろしくなりました。
そこで私は、Sさんに彼の会社に対して私が感じる「違和感」について、話をしました。それが彼に追い打ちをかけてしまいました。
「わかってるんです。このままじゃいけないって。でも福岡に帰っても、家も仕事もないし、そのためのお金もない。会社を辞めたいと思っても、辞めたら寮を出なくてはいけないから、引っ越しのお金もない自分は寮を出られない。だから、逃げたいと思っても会社を辞められないんです」。
Sさんは電話口で泣きながらそう言うと、音信不通になってしまいました。
Sさんは私が勤務先の「おかしさ=暴力=搾取」を指摘するまで、自分が直面している問題に気づいていませんでした。どうして自分の抱えているおかしさに気づくことができなかったのでしょうか。
そこには会社が仕掛けた罠がありました。
・経済的にあまり恵まれていない人を「寮があるから、大丈夫」と寮に入れることで、まず隔離する
・縁のない土地で、勤務先以外の知り合いがいないという孤独な状況、相談できる人、場所がない状況を作り出す
・シフトアップさえすれば、まるで何もかも上手くいくかのような印象を与え、過重労働をさせる。その結果、疲労がたまって、理解力・判断力が低下することになり、自分の状況を冷静に見られなくなる
・職場と寮の往復の日々で、他の人との比較がしにくい環境をつくる
・辞めたいと思っても、薄給で貯金もままならず、寮を出られないので
辞めることもできない
その他、個人特定がされてしまうので書けないことがたくさんありますが、さまざまな罠が張り巡らされていました。
それでも彼は逃げることにした
音信不通になって1カ月。
Sさんがどうしているか心配でたまりませんでしたが、家族でも勤務先の同僚でも、先輩でも部下でもない私は何もできずにいました。さらに彼が身体的、精神的、経済的に追い詰められて、どうにもならない状態に陥っていたらどうしようと毎日気になっていました。
そこにSさんから「もう、限界です。僕、逃げることにします」と連絡がありました。
Sさんは私との連絡を絶ってから、同じ経験をした人なら私より自分の状況を理解してくれるのではないかと、かつて同じ寮にいて退職していった先輩に連絡をしたそうです。そしてその先輩から、私が指摘した「おかしさ」と同じような話を聞かされて、ようやく冷静に自分のことを考えられるようになったそうです。でも前述のとおり、会社を辞めたら寮を出なくてはなりませんし、ある意味で寮は彼を監視する存在でもありました。だから辞めたい、逃げたいという素振りは一切できません。そのための準備もできないのです。
自分の直面するおかしさに気づいたけれど、逃げる方法が何もないことに愕然とした彼は、それほど親しくなかったその先輩に頭を下げます。
「どうしても、ここから逃げ出したいので、少しだけ泊めてください」。
そこから彼は猛スピードで動き出しました。
私に連絡をしてきたSさんは、寮にある荷物ぜんぶ、段ボール3箱を預かってほしいと言いました。先輩のところに泊まるにも、大量の荷物は持ち込めないから、と。
それを聞いて、私はなんだかとても切なくなりました。おしゃれもしたい、欲しいものがたくさんあるであろう20代、正社員でまじめに働いている人間の荷物が、段ボールたった3箱。経済的な問題もあるでしょうが、休日もシフトアップし、夜中の2時まで仕事をしていたら、遊びに行くことも、好きな人を作ることも、友人を作ることも、趣味を楽しむこともできません。外出する必要がないから、おしゃれもしないし、ものも必要ではなくなっていく……。こんな悲しいことがあるでしょうか。
そしてSさんは私の家に段ボールを宅配便で送り、なけなしのお金で労働組合系の退職代行に依頼して、会社を退職。同日に寮を出て、先輩のところに逃げ込みました。
住所不定・無職の自分には未来があるのだろうか? でも逃げないわけにはいかなかった
退職代行を使ったのには、理由がありました。私との連絡を絶ったあと、彼は意を決して、営業所の所長に「辞めたい」と伝えたにもかかわらず、のらりくらりとかわされ、本社に話をしてくれなかったため、辞めることができなかったそうです。
相談した先輩も同じように会社に辞意を伝えたものの、3か月経っても辞めさせてもらえず(法律的には、辞意を伝えて2週間で退職できることになっています)、退職代行を利用して辞めざるを得なかったと言います。
こうして、Sさんは今日、住所不定・無職になりました。
先輩とその知人の家を何日かごとに移動して、泊めてもらう予定でいるそうです。
今、私の前にいる彼の目は暗く、不安があふれています。
住所不定(転職活動は先輩の住所で行う)で、無職になった自分なんかに次の仕事が見つかるのか。日々の食事にも困るような経済状況で、いつまでこんな暮らしがもつのか……。不安の種は尽きません。
でも「逃げるしかなかった」ともSさんは言います。
あのまま会社にいたら、自分が壊れていたと。
Sさんは、いまの日本で「やりがい搾取」されている、たった一人に過ぎません。数えきれないほど多くの人が国や企業に魔法の言葉をささやかれて、だまされて、やりがいを搾取されているのが今の日本だというのは、連日の報道でみなさん感じているところだと思います。
東京でこれから待ち受けている未来は自分の頑張りしだいで輝かしいものになると信じていたSさんから希望を奪ったのは、国であり、企業です。
そして、誤解を恐れずに言えば、「逃げる」ことができたSさんは運がいい方だと言えるのかもしれません。逃げることもできず、壊れゆく自分をどうにもできずにいる人もたくさんいるのですから。
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なにもできなかった自分。ではなにが私にできたのか? それは今もわからない
私はいまこの文章を、Sさんの荷物、段ボール3箱がある部屋で書いています。彼にこの荷物を返せる日が来ることを、切に願いながら。
結局、私は彼のために何もすることができなかったという事実に愕然としています。私がしたのは足りない薬代150円を貸したこと、そして段ボールを預かることだけです。Sさんの話を聞きながら、ずっと自分にできることを考え続けていました。
お金を貸せば、逃げられるのだろうか?
私が住む場所を提供する(つまり自分の家に泊める)ことで、解決できるのだろうか?
私が彼に代わって労働基準監督署に駆け込むか?
(私が駆け込んでも、結局、本人が訴えをしないと労働基準監督署も対処がとれません)
いったん私の家に住民票を移して、私の住む地域の社会福祉事務所などに相談するか?
などなど、本当にいろいろなことを考えたのです。
でも結局、どれもすることができないまま、Sさんは自身で住所不定・無職になることを選びました。この結末が本当によかったのかどうかは分かりません。でも、薬局で足りない薬代150円がきっかけで出会い、話を聞く程度で仲がいいと言っていいのかわからない私が、彼の抱えている問題にどれだけ踏み込んでいいものなのだろうかと考えたら、身動きができなくなってしまったというのが正直なところです。
きっと私だけではなく、同じ状況になったら多くの人がどうしたらいいのか、どこまで踏み込んでいいのか迷うのではないでしょうか。困っている人が目の前にいて、何をしたらいいのか、何ができるのかわからない。
個人がそんなことを考えなくてはいけない状況自体が、この国がおかしな方向に進んでいる証拠なのかもしれませんが。
せめて、Sさんのような人がどこに相談をすればいいのか、私のような立場になった人間がなにをすればいいのかが明確にされて、正しく救いを求めることが社会になってほしいと思います。
ここでもまた、そのために私に何ができるのか。何をするべきなのかわからないという問題が浮上して、堂々めぐりになってしまいます。
みなさんだったら、どうしますか?