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淡谷のり子・美空ひばりが大人と子供だった頃の話

写真はかなり前に買ったメンコです

NHKの「ブギウギ」を楽しみに観ていました。
観られない時は録画。録画がうまくいかなかったときは
X(旧twitter)のブギウギのアカウントをフォローしておくと
なんとなく流れがわかり、YouTubeの動画への誘導もあったので
助かりました。
あの頃の名曲が流れ、歌い踊るシーンにワクワクしながら過ごせた半年でした。

・淡谷のり子さんの人生について書かれた本より
興味深い記述があった。
淡谷のり子は戦後すぐの頃劇場入りするとすぐに劇場のお風呂に入ったそうで、
当時は内風呂を毎日沸かす余裕がない時代。お風呂に入れるのは出演者の特権だった。
美空ひばりは当時は子供で、淡谷のステージの前座をつとめていて、やはりお風呂に入りたがった。
前座をつとめるひばりが主演ののり子よりも先に入るのは許されないのです。序列の厳しい世界ですから。
のり子が入った後に入ったのではひばりは前座の舞台出演に間に合わない。
そういう事情もあって支配人さんから「ひばりと一緒にはいってくださいませんか?」とお願いされ、
淡谷のり子は毎日香りの良い石鹸でひばりの体の隅々まで洗ってあげたそうです。
その時のひばりの年齢は9歳。

もしも美空ひばりがもうちょっと長く生きていたら?どんな名曲が生まれていただろう?と想像したりすることはないですか?
淡谷のり子の歌は「バタ臭さを好む。貧乏たらしさを嫌う」もの。反対に美空ひばりの歌は「アメリカ化を拒んでしめった感じの日本人の心情を代弁する」ようだと言われました。
だから二人は水と油のような感じを受けるのですが、デビュー当時の子供であったひばりには細やかな心遣いで接していたようにお風呂でのエピソードを聞くとそう思います。
歌が上手く、子供であっても歌は大人のようだということで、笠置シヅ子にはその存在が脅威でもあったのですが、淡谷のり子は可能な限り地方巡業にもひばりを連れて歩いた。

子供の美空ひばりは「悲しき口笛」などで大変な才能を見せています。しか し、当時はどうしても「物真似」をレパートリーにするほかはなく、それで笠置シヅ子のヒット曲を歌って前座をつとめていました。
自分の歌の「悲しき口笛」が出てもなお、持ち歌が一曲しかないので他の歌手の持ち歌を歌わざるをえなくていろんなことがあったようです。

昭和25年にハワイアメリカ巡業をすることになった笠置と服部良一の興行の前にはひばりの渡米公演が決まっており、当時は笠置の歌をレパートリーにしていたひばりは、笠置さんの興行元から「一足先にひばりにブギを歌って回られたのでは興行の価値が下がるのでなんとかひばりの方には手を打ってもらいたい」と言われ渡米中のみ服部作品のブギなどを音楽著作権協会を通じて使用を停止することに。

その件について笠置サイドからもひばり側からも苦情を聞かされたのが淡谷のり子だったそうです。

しかし「いつまでも人の真似っこではいけない、自分の歌を歌わないといけない」というのり子のアドバイスを上目遣いでじっと不敵な表情でひばりは聞いていて「この子なら心配ない。どんな深い谷底からでも這い上がってくる」と確信。
「自分のレパートリーでリサイタルのできる歌集になりなさい」と強く言い放ったそうで、子供相手でもズバリ本音で言える淡谷さんの本当の優しさを感じますね。


参考文献:吉武 輝子 (著)
別れのブルース―淡谷のり子 歌うために生きた92年 (小学館文庫) 文庫

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