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「考えれ」ば万事「解決」する世の中だ。
ライフプランという言葉に、滑稽だと冷笑する。
偶然性は、人生で最も尊い。
流れる川の水のような人生を送りたい。
この先何が起きるかわからないなんて面白いと本気で思う。
偶然性に任せる人生は、ある意味無責任で他人任せ環境任せに思えると思う。
反論はしない。
鏡の前の自分に、じっくりと対峙すれば一瞬真の自分が垣間見える。
その自分は隠れぎわに自分にカンタンに嘘をつく。
誰かと競うことは得意ではないし、好きではない。競争に恵まれたこともあって、幼い頃はそのおかげで一定の自信が育まれたんだから、単に運が良かったんだと思う。
でもそんな立ち位置は長続きしないし、いずれ誰かに追い越されるわけで、そんな自分を許せずそのポジションを保つためだけに努力したことはない。他人の努力話はとても興味深いし尊敬できるけど、他人に負ける自分を許せないと思えない。
競争社会不適合
他人よりできることは天の恵みでしかなくて、恵まれた自分は他人のために活かさないといけない。偶然、雨が降ってきたのが私の土地だけで、周りの田畑は多少水不足なら、得られた作物は隣人と分け合いたい。ここで意地悪いのは、もし私自身で消費できないときはって、心の注釈が出るとこ。餓死するのほどの献身なんて嘘でもつけない。
不遇だったり、不幸だったりする話は世間にたくさん見つけることができる。しかも自分にふりかかった不公平を、ただ運が悪かったんだと割り切れる人はほんの少数だ。
感じ方がは人それぞれ。出来事をどれも不遇だって感じる人種がいるとは思わないけれど、他人の不幸はいつだって他人事の範疇でしかない。おなじく自分の不幸も「生きていればこのぐらいの不幸もあるよね」って感じることが多い。なんで私だけ?なんて思えればいいけど、そんなわけないし。
誰だって辛い思いして生きることだってある。
人生設計できる人間はすごいと思う。こだわりがあって、大事なものがあるって素敵なことだと思う。人生に起こる事象を幸福と不幸にわけて、幸福の割合を最大化できるように努力したいと思えることは羨ましささえ感じる。
今感じること起きること全て刺激的で尊くて愛したくなる。虚言であればいいのに。そういう風な自身に憧れがあって、自分を縛っているのかな。向上心とは程遠く、不幸に対しても鈍感になる。誰だって怒ることが起きてしまっても、周囲を気にして怒ることもできずにかえって人間性を疑われる。私に関わる出来事に対して、私以外の人間の方が感情を荒ぶらせる。ある意味自分にとっては不幸で、他人の自分への期待とありがたさに対して応えることができない。
他社との距離感は難しい。どうやって他人の期待に応えていけばいいのだろう。誰の視線は気にしなくてもいいのだろう。流されるだけでは、意図せず人は離れる。どうしてなのかも知らないまま。知らないことは知ろうとしないこととみなされ、自己責任という必殺ワードに自身もうなづいてしまう。
この文章を残すわけは、やっぱり何か違和感があるからだと思う。本来じっくり自分と向き合って、なぜ生きづらく感じることがあるのか考えるべきなのかもしれない。
「考えれば」万事「解決」する世の中だ。
なぜ傷つくかわからず、壁に当たり続けてボロボロな自分と、重ねた傷さえ愛おしいく思えればいいんじゃないかと、いつもこんな結論で納得してしまう。