曦宗達日記(2020年4月後半)
二〇二〇年四月十七日
ウィキペディア作成は自分がもし乗れる価値のあるものとなった時、自分で自分のを作成することができるのか?
別の作業中に短歌創作意欲が湧いたりしたら、その場でキーワードや描きたいフレーズ、テーマをメモ。
→余裕ができたり創作の時間になったら組み立てる。(もっとも、短い休憩中はどうだろうか。時間が空いてても、短歌創作よりも重要なことが舞い込んだら話は別になってくるのかもしれない。)その時その時の体調と、スケジュールから妥当なやり方で突き進むしかない。
役に立つことなんてない。
二〇二〇年四月十九日
短歌が作れないなと思う中で常にそのままの形でできるわけではない。例え外でできた歌だとしても、あとで家で手直しする必要がある。その時どれほど時間を必要とするのか。
脳が中途半端では決断もできない。だから短歌も作れない。外へゆく決断に時間をかけすぎている自分がいる。そう、僕は決断と行動が遅い人。遅い人は生きにくい人生。かつそこから逃げようとする無意識に振り回されながら生きなければならないとなる人生の残酷
昨日の居酒屋では何も学ぶこともなかった。ただ違うワールドを見せられた。僕はここにいるべきではないと思い、同時にここにいては物理的には成功するんじゃないかとも思った。
二〇二〇年四月二十日
短歌作りに勤しむと、時間のタイマー設定すらにイライラしながら創作し、時間かかっても成果がいつ出るのかわからない歌ができ、その二時間後に文献からの創作が一番いいことに気づく。今までの時間はなんだったのか、そして、動画を見ては時間が過ぎ去る。面白いのに満たされない。そんなのはいらない。常に満たされなければ中途半端になる。
脳みそがなかなか読書に追いつけない。活字を嫌うのかそれともネット脳なのか。そしてなぜか脳はアニメ視聴に抵抗を持ち、神経は動かない。糞。
二〇二〇年四月二十一日
まあ、糞には糞が一番なのかもしれない。ただでさえ汚い行為なのに音を立てる。かつそれを指摘すると反抗。僕がうるさい人間だからって改心しようとしないのは単なる役に立たないクズと同じ。いわば枷とも言えよう。
二〇二〇年四月二十四日
下手になってしまっても良い。短歌を一日一首は創作しろ。なぜならその下手すら上達に繋がるから。途中過程の手直しも良いが、完成させておきたおいもの。
動きながら、移動しながらやろうか。(多動の練習)音楽は勉強する前(15分ほど前)に聞き納め。ただしアイデアやアウトプットはいろんな注意を向かせるために音楽を流す。まとめるときは音をなくすか自然音。物覚えにはそれに対するジェスチャーをし、体全体で知る。刺激
二〇二〇年四月二十六日
やっぱり小説自体苦痛だ。ほんとにすらすら読めるハイスピードで熱中させるものじゃないと夜は読まん!
二〇二〇年四月二十七日
「社会人になってからは何もやりたいことができなくなる。」という概念を捨て、なんでもできるようにしたい。
できることを先回りする(後回し)にすると後々引きずって処理も大変になる。記憶には薄いけど苦い経験がある。
失敗しようがそれは人生のほんの一瞬。大きな糧とはなるが大したことではない。引きずらない方が賢明だろう。
王道とも言える短歌賞への応募はあくまで手段と短歌技術の再認識。短歌以外にも目を向けよ。
家だと気楽で学校だと息苦しいと思う理由
ーもの取られる不安の無し有り
ーぶらぶら歩けるかそうでないか。(雰囲気、場の空気など)
ー外出るとこから距離ないかあるか。(気楽に出れるか時間かかるか)
https://note.com/ochyai/n/n6083043d2ada
とか、短文の中にもイノベーションはある。
大人になっても父親になったとしても楽しさを作ることは続けるのだ。
アートはすべての学問の入り口。