見出し画像

ほんやら洞の「スパイシーチキンカレー」

 3月に引っ越すまで住んでいた地元は、生まれる数年前から始まった再開発計画のおかげで何でも揃っていて、住むにはとても便利だけれど、困った事に「遊び場」が無く、まだ若者をさせていただいている僕にとっては、ひどく退屈だった。引っ越しを検討し始めた約1年前に、僕の中で「地元の良さ・再発見プロジェクト」を立ち上げて色々と開拓をしたものの、そのほとんどが深夜帯までやっているバーだったりしたので、このご時世では全く意味を持たず。結局、魅力を見出せずに、僕はその街を後にしてしまった。

 引っ越し先は国分寺市。中央線だ。電車がよく止まることで有名な、あまり好まれていない路線かもしれないけれど、僕にとっては、通っていた大学に中央線ユーザーが多く、その連帯感が羨ましかったために、「念願叶って」といったところなのである(無論、彼女の家が近くなることが、この路線沿いを選んだ、最大の決め手であったことは間違いない)。
 きっと多くの若者たちと同じように、当初は吉祥寺や高円寺あたりで物件探しをしていたが、様々な条件が合わず、どんどん西へ目標点を移動させていき、立川の2文字が見えたところで「さすがに職場から遠すぎるな」と我に返って、最終的に落ち着いたのが国分寺というわけである。
 職場の人々に国分寺に引っ越したことを報告すると、9割方から「遠っ!」と怪訝な目で見られてしまうのだが、ある上司からは、嬉しいことに「いいね。あそこらへんは、独立国家だからねぇ」とエールをいただいた。
 まさにその言葉通りで、すべてが揃う上に「遊び場」も近所にあるので、以前の街でずっと感じていた物足りなさを感じない。住んでから2ヶ月近く経つが、とても住み良い街だと感じている。

 ・・・さて、ここまで「遊び場」という抽象的な言葉について、特に触れずスルーしてしまっていたが、ここいらで説明をしておこう。
 僕の、「遊び場」認定を満たすための欠かせない条件。それは、「美味しいカレー屋さんがあること」だ。大学生になってからカレーライスにハマったというのに、一丁前に「自分を構成する食品」の代表格みたいに扱っているのは出過ぎた真似だと自覚しているが、いつからか、近所に"間違いない"カレー店がある生活スタイルに、僕は憧れを持つようになったのである。

 それでは、引っ越し元に、グッドなカレー屋はなかったのか。
 実は、あった。なんなら、そこには何度も通っていて、ほぼ毎回キーマカレーに食らいつき、配布されているスタンプカードのコマは全部埋めた。窮屈な街でも、そのお店にいる時だけは浮つきを感じられていた。
 でも、何かが足りなかった。セットのミニサラダがいつからか別売になったこと、マトンカレーはいつも品切れているのに未だにメニューに掲載されていること・・・そんな、分かりやすく気がかりな、不満点のようなものはたしかにあったが、モヤモヤの原因はそれでは無いように思う。
 足りなかったのは、「こなれ感」といったところだろうか。味がコロコロ変わって不安定だった、というわけではないが、そのお店が開いたのは、僕の記憶が正しければ数年前。(生意気ながら)今は、美味を追求している過渡期という印象を受けた。いや、もちろん、十分に美味しいのだけれどね。

画像1

 家の近くにある「ほんやら洞」のこのカレーライスを食べると、徐々に効いていくスパイスとともに、その不完全が満たされていくのを感じる。パズルの最後の1ピースを、キツさを感じながらもピッタリと埋める感覚に近い。味に正解なんてものはきっと無いのだろうけど、正しい味、だと思う。
 何より素晴らしいのは、いつの間にか汗ばんでしまう辛さである。スプーンで掬う一杯一杯に、深みを感じられる。考え尽くされたであろうタイミングで、遠くから辛さがやってくる。シンプルな見た目とは正反対の、とても複雑な味。それでいて、きっと、これまで変わらずこれからも変わらずの、伝統的な味。これから数年間、この味がご近所さんだと思うと嬉しくってたまらない。(またも生意気ながら)マイ・ワードローブ・カレー、とでも呼んでしまおうかしら。

 この記事を書くための下調べをしていたら、このお店のWikipediaを発見した。相当な老舗だとは薄々気づいていたけれど、まさか70年代から続いているとは!そして、フォークシンガーの中山ラビさんがオーナーを務め、このカレーも、彼女による熟慮の末に出来上がった逸品だったとは。

 ただ、蘊蓄を知らずに、昼に訪れて純粋にこの味に感動できたことは嬉しい。蘊蓄は、時に純粋な理解の邪魔になる。「美味しいに違いない」と思って入ったお店の料理は、仮にそれほど美味しくなくても凄く美味しいのだ。
 ほんやら洞は、喫茶店。カレー店ではない。美味しいコーヒーが出てくるのは予想がついても、美味しいカレーが出てくるとは思わない。その良い裏切りを味わうことができるのが、開拓の醍醐味なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?