「盛り」から「映え」、そして「現実」へ - Be Real と現代文明は言う-
写真を撮るという行為は2000年代に大きな変化を遂げる。撮影、共有、リアクションという一連の動作が、写真を撮るという行為にデフォルトで埋め込まれるようになったのだ。スマートフォンの普及によって、人々は驚異的な手軽さで写真を撮ることができるようになっただけでなく、インタラクティブに設計されたSocial Mediaを通じて他者からのリアクションを瞬時に得ることができるようになった。写真というメディアは、記録から共有へとその意義を大きく変えている。大山顕の『新写真論』は、この写真というメディアの「進化」の過程を精緻に描き出している。
結婚式でチャペルに入場する新郎新婦に一斉にiphoneのカメラを向ける参列者たち。プロのカメラマンが何人もシャッターを絶え間なく切っているのに、彼らは一体何をしているのか。簡単である。写真を撮って共有しリアクションをもらうという行為が、現実の「場」に参加しているということの証明になったのだ。撮影された写真そのものには一銭の価値もないが、撮影して共有するという一連の動作は、「現実」の「記録」のプロセスとして完全に定着した。もはや一部の写真家のみが写真というメディアによって「記録」を独占できる時代は終わった。全人類がスマートフォンを通じて撮影した写真を絶えず共有し続けるSocial Mediaは、セミオートで稼働する「現実」の記録装置である。遠い将来、歴史学者の仕事はInstagramやTikTokのlogを分析することになっているはずだ。
Social Mediaの記録メディアとしての成立に応じて、人々が記録を「改竄」するためのテクノロジーを進化させてきたことは、歴史の必然であった。特にその「改竄」の関心は、物理世界への存在の証左たる自己の身体に向けられてきた。順序としては、最初に「盛り」が、その次に「映え」がやってくる。「盛り」とは、写真が、その被写体となる物理的身体の美的価値を上回るように加工された状態を指す。プリミティブなテクノロジーとしては画角や採光、メイクアップによる「盛り」があり、そこから加工フィルター的なアプリケーションによる「盛り」が進化していく。
対して「映え」とは、撮影された写真が、共有プラットフォーム(主にInstagram)において、ユーザーのアテンションを多く集める方法で加工された状態を指す。「盛り」の段階では、写真が単体として鑑賞価値を高めるような方法で加工されていることが重要であったのに対して、「映え」では、特定のプラットホームにおけるユーザーアテンションを集めることが重視される。「映え」を実現するためには、Instagram上のユーザーの欲望を巧妙に投射しながら、写真をめぐる自身の行動そのものを加工することがキモになる。
「盛り」がある一点のタイムスタンプにおける被写体の美的価値を引き出す静的なテクノロジーであったのに対し、「映え」はプラットホーム上のユーザーの関心を集めるために動的に行使されるテクノロジーである。「盛り」は写真を撮影した時点で達成されるが、「映え」は共有やリアクションといった撮影後のプロセスに及ぶ精緻な技術を要求する。その写真はいつ投稿するべきか?どんなキャプチャと一緒に?誰からのリアクションに反応するべきか?普段からどんな投稿をしていれば「映える」か?「映え」は、プラットフォームへの継続的な関与を前提とした複合的テクノロジーであり、その進化は、写真というメディアが万人による共有・記録のメディアへと変化してきた足跡と正確に呼応している。
Instagramが万人による記録のプラットホームとして作動することで「映え」は私たち人間の生活に対して本質的な重要性を持つテクノロジーになった。これまで人々が良き存在であるために実践してきたこと、例えば、学問を修めること、良い家庭を育むこと、健やかな身体を保つこと、広く深く友と交わること、それらと同等かそれ以上に「映え」は生きる上で重要なものになったのだ。具体的に言えば、私たちは行動や交友が適切に「映える」ものになるように、慎重に取捨選択するようになった。それは古代の偉人たちが、己の偉業が如何に神話や歴史書に刻まれるかを想起しながら、重要な決断を下してきた様子に似ている。プラットホーム上で記録として残る写真の方が、複雑怪奇な「現実」よりも、よほどリアルな「「現実」」として意識されている。「現実」以上の「「現実」」こそが生きられているのだ。
こうした事態を最も潔く受け入れてきたのは、今年で29歳を迎える私の世代(いわゆるゆとり世代)の人間であろう。大学に入学した頃に急速にInstagramがインフラ化し、卒業する頃にTikTokが大衆化した。4年ぶりに出会ったという友人同士が事細かにInstagram上に刻まれた記録を記憶し合い、昨日会ってきたばかりかのように会話ができる。「映え」のテクノロジーは、私たちの「現実」における行動を細部に至るまでチューニングしている。そして、プラットホーム上を蠢く自分の写真や動画こそが「現実」であり「正史」であるという感覚を、強く内面化している。2010年代以降の時代意識のモードは、物理的身体のエンハンスメントであった「盛り」から、現実自体をつくりかえてしまうつ「映え」への移行によって彩られている。それは、「現実」から「「現実」」へとでも形容すべき、驚くべき意識の変化である。
しかし、Instagram的な「映え」のテクノロジーが、「「現実」」として機能することで急速に「規範化」していることを見逃してはならない。「映え」なければならないという感覚は、実際のところ大変息苦しい。もともとサイバー空間は「現実」のオルタナティブや逃避のための空間として存在していたはずが、いつの間にか「現実」と同じ強度を持つ「「現実」」として、強い規範性を備えるようになってしまった。もはやサイバー空間にも逃げ場がないとなれば、私たちは「現実」の荒波からのオルタナティブをどこに見出せば良いのだろうか。
そのような問題意識に応えているのが、学生を中心に爆発的な人気を集めているBeRealというアプリだろう。BeRealは、1日に1回ランダムな時間に送られるプッシュ通知を受信してから2分以内に写真を撮って共有するというだけの、非常に単純なSocial Mediaである。ただし、BeRealに共有する写真は事前に撮影しておくことはできないし、インカムとアウトカムの双方が同時にシャッターを切るため撮影している自分と被写体の両方をアップロードしなければならない。また、「盛り」のテクノロジーであるフィルターの類は一切実装されていない。要するに、プッシュを受信してから2分以内に撮影した「現実」を、そのままに共有するためのアプリケーションなのである。
BeRealは、Instagram的な「映え」の規範性を徹底的に排除している。加工はできない、共有の時間も選べない、何を撮るかも選べない。ただ、自分が今目の前にしている風景と、それを見つめる自分自身を被写体とて無防備に差し出すことが求められる。これは、「「現実」」へのオルタナティブ、あるいはカウンターとしてサイバー空間に作り出された、新たな”現実”だといっても良い。
では、そのBeRealが創り出す”現実”とは一体どのようなものなのだろう。BeRealは、フレンドとの間で完全にクローズドで運用されることを想定している。つまり、BeRealは、「現実」の身体が持つ交友関係を延長するツールであり、そういった意味では仮想現実よりも拡張現実と呼ぶのが相応しい。対して、Instagramは、現実における身体の様態や関係がどうであれ、プラットホーム上で「映え」ていればアテンションを集められる、まさに仮想現実(「「現実」」)的なアプリケーションである。つまり、BeRealを楽しめる層は、「現実」に充実した生活を送っている人たちなのである。
つまり、BeRealとは、Instagramによって規範化したバーチャルな「「現実」」を脱して、「現実」に還れ、というメッセージだとは言えないか。それは、「現実」の身体が創り出す関係や、「現実」の身体が見ている景色に還れ、という強い警鐘に聞こえる。私は、そのメッセージを諾諾と受け止めながら、しかし、己の人生そのものを如何様にでも「加工」し、何度でも生まれ変われる「映え」のテクノロジーの引力に、この「現実」に還れというメッセージがどれほど響くのだろうか、と疑問に思う。
BeRealを熱心に消費しているのは学生であり若者だ。若者には、未来がある。未来がある人の「現実」は、往々にして輝いている。そして、もう若者ではない多くの人には、未来がない。「現実」は、日常の繰り返しの向こう側にある老いであり、身体や精神の衰弱の積み重ねであり、おそらくどうにもならない自分の人生そのものである。モルヒネのように「映え」を摂取し続ける大人たちは、BeRealと問いかけられて還るべき「現実」を直視できるのだろうか。フィルター越しでない「現実」は、もはや多くの人にとって還る場所にはなり得ないのではないか、と素朴に思う。
代々木公園の隣にあるカフェで、まん丸に太ったトイプードルが3匹並んで繋がれている。飼い主と思しき人たちが、ひっきりなしに写真を撮ってはフィルターで加工してInstagramにアップロードしている。犬は店内に響き渡る大きな声で吠え続けている。飼い主は耳を擘くような甲高い鳴き声が聞こえないかのように、脇目も振らずInstagramのタイムラインを凝視している。「現実」と「「現実」」と”現実”、一体何がこれからの「救い」になるだろうか。