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陰謀論的想像力:一問一答ではない世界の複雑さをめぐって
とても長い間、いわゆる陰謀論について思考を続けている。陰謀論とは、一般的にある出来事を何らかの個人や集団の意図によって引き起こされたものであると(往々にして明確な根拠なく)断定する思考である。たとえば、アメリカ民主党がピザ屋で児童人身売買をしているとか、東日本大震災はフリーメイソンによって人工的に引き起こされたものであるとか、コロナウィルスのワクチンを打たれた人が5Gに繋がれて情報窃取されているとか、そんな類の根拠なき荒唐無稽なものが殆どだ。しかし、この滑稽にすら感じる陰謀の数々を信じ込んでいる人々の思考のあり方は、何らか僕たちの生きる時代の精神の一面を切り取っているように思えてならない。
今回はそんな、多くの人にとって遠い世界の話に感じられる陰謀論と、僕たち自身の問題を引き付けて考えるためのヒントになるような文章を書きたいと思っている。陰謀論とそれに基づく一連の騒動は、一部の愚かな人々が巻き起こしている”喜劇”ではない。それは、僕たち人間が根源的に抱えている宿命的な病理の発露だと考えるべき、というのが僕の考えだ。
1. 陰謀論入門:あなたはいくつ言えるかな
陰謀論の本家本元といえばやはりアメリカで、日本の陰謀論は規模も影響力もお子様レベルである。なにせ向こうでは、前大統領が陰謀論団体の元締めのようなことをやっており、大衆を扇動して連邦議会を襲撃させ死人を出したほどなのだから。
とはいえ日本でも陰謀論者はそれなりに活発に活動している。雨宮純は陰謀論や霊感商法を専門とするライターだが、彼のnoteを見るだけで、日本における陰謀論のダイバーシティを窺い知ることができるので、興味のある方はぜひ参考にしてみてほしい。
大田俊寛の”現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇”は、19世紀のアメリカで生じたスピリチュアルブームと、現代に至る新興宗教やカルトとの連続性を論じている。陰謀論的な想像力は、100年以上の文脈と蓄積を持ち、文化、経済、社会、宗教などの周辺領域に満遍なく広がっているのだ。本書を読めば、陰謀論がマイナーチェンジを繰り返しながら、時代の節々で隆盛してきた様子を知ることができるだろう。
あらゆる陰謀論には、必ず「黒幕」が存在するという特徴がある。本来は複雑な要因が絡み合って発生している世の中のあらゆる事象を、陰謀論は、「⚪︎⚪︎の陰謀」という単純明快な理屈で説明できる点に優位性があるのだ。この単純明快さこそが、陰謀論が人を惹きつける所以である。陰謀論者はよく”全てが繋がった瞬間”を経験すると話すが、英語圏ではこれを”take the red pill”というフレーズで表現する。ご存知の通り、これは映画マトリックスでネオが、夢から目覚めて救世主となるために飲む錠剤の色に由来する比喩だ。red pillを飲むことで、人々は蒙を啓かれ、世界の「黒幕」を認識することができる快感に溺れることになるわけである。
少し注意が必要なのは、あらゆる事象の背後には「黒幕」がいるという論理構成自体は単純そのものだが、その「黒幕」を導くための理屈は相応に複雑である場合が多い。以下は、今や最大勢力を誇る陰謀論団体となったQ-AnonのWebサイトから引用したワードマップだが、大体このくらいの固有名詞と事件についての連関くらいは頭に入っていないと陰謀論者としては立ち行かないということだ。これは世の中の多くの人が誤解していることだが、陰謀論者は極めて勤勉で博識である。ゆめゆめ、誤解なきよう。
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2. 強迫的能動性の時代:”自分の頭”で考える
陰謀論の基本をみたところで、ガラッと話を変えよう。最後は陰謀論に帰ってくるのでご安心を。
昨今、自己発信型のコミュニケーション力があらゆる現場で強く求められている。学校教育の現場は隅から隅まで、生徒が自発的な活動に取り組むことを求めるアクティブラーニングの手法を取り入れるようになった。あらゆる授業にプレゼンテーションが組み込まれ、若者は四六時中発表に向けた作文やらパワポやらを拵えている。これからの時代は、自分の頭で考えて人生を選び取っていく力を養うのだと、耳にタコができるほど聞かされているであろう。
ビジネスの世界も同じで、世の中から期待されている役割を演じておけば、社会的な承認を得て精神的にも物理的にも幸福を享受できるという期待は、とっくに失われている。自己啓発本の棚を眺めてみれば、自分の頭で考える、サバイブ、投資術、コミュニケーション、リスキリング、などなど、強迫的に人間の能動性を駆り立てようとするものばかりだ。
マイナビのリサーチによれば、2023年の正社員転職率は7.5%で過去最高水準が続いているとのことで、そのボリュームゾーンは30~50代のミドル男性だという。仕事は人生の目的であるとは思わないが、ただ生きる時間の大部分を費やすもので、人生の意味を大きく規定するものであるのは間違いない。今や、人生の意味は誰かに与えられるものではなく、自ら能動的に選び掴み取っていくものになっているというわけだ。
先回りして結論めいたことを言うと、このような”自分で考える力”、あるいは個人の”能動性”を強迫的に求める時代のモードと、陰謀論的な思考の隆盛は正確に呼応していると僕は考えている。このことを説明するには、人間の認知の枠組みに対する基本的な理解とその限界についての考察、さらに現代社会を席巻するアテンション・エコノミーと情報の氾濫といった僕たちの取り巻くオンライン環境に対する検討を要する。以下でそれらを執り行っていくが、結論はいま述べた通りである。
3. 一問一答的思考:Shorts, ネットニュース, TikTok
人間の認知能力に関する研究は古今東西あらゆる分野で進められてきた。現在わかっている基本的な事実を振り返っていこう。まず、人間は、複雑な現実をそのまま認知し処理することはできない。だから、宗教や文化、社会的規範、個人の経験といったシステムを組み合わせた解釈の枠組み(最近の流行で言えば”ナラティブ”でも良い)を作り、ヒューリスティックに物事を認知し処理している。
ヒューリスティックとは要するに、「ま、大体こんなもんだろう」と深く考えすぎないことで、情報の解像度を下げて日常的に消費される認知資源をリザーブしているということだ。逆に、深く思考することが必要な際は、ヒューリスティックとは異なる方法で理論的・熟慮的な思考のモードに意識的に移行している。このモードは認知的負荷が高いので通常は呼び出されない。これはカーネマンがThinking fast and slowでsystem1とsystem2という概念を利用して主張していることと同じである。
こうした認知にまつわる基礎理解を踏まえた上で、過剰に能動性を要求されるという状況を考えてみる。現代社会では、自分から知ること、発信すること、意見を持つことが、割り当てられた認知資源量に関係なく、広く求められるようになっていると先ほど述べた。そして、端的でわかりやすく、複雑性を縮減された情報は、人々のヒューリスティックな判断に組み込まれやすい。だから、こうした”わかりやすい”情報は、積極的に摂取され、流通量も需要に従って増える。
例えば、疑問を解消してくれるインフルエンサーの切り抜き、明快に図式化されたSocial Media上の投稿、文脈を捨象したネット記事の見出し、あらゆる物事を単純明快に説明できると謳う自己啓発本、といったコンテンツを思い浮かべてみる。代表的なのは、一時期ネット世論を席巻したひろゆきや堀江貴文氏のコンテンツだろう。トピックごとに1~2分にまとめられた動画を眺めているだけで、社会問題やビジネストピックに明快な見方を与えてくれる彼らのコンテンツは、幅広い世代の視聴者から人気を集めている。
こうした”わかりやすい”情報を集積して構築される認知の枠組みを、今回は一問一答的な思考として概念化してみよう。一問一答は、質問に対して単語レベルで端的な回答を出せる問題形式で、明確な論理づけを要求する”論述/記述”形式と対照的に用いられるものだ。一問一答的な思考は、背景や文脈といった、問いや答えの背後に本来存在している膨大な情報量を捨象するかわりに、個々の場面に対する回答としては端的で明快なものを提示することができる。持っている知識はネットワークになっていなくとも、色々な”単語”や”概念”を知っていて、文脈に応じて当意即妙にそれをアウトプットすることができる。複雑に絡み合った因果関係を複雑なまま把握する能力には乏しいが、点と点に直感的な線を引いて蓋然性の高い用語を提示できれば正解とするものだ。
お気づきかと思うが、今述べたような一問一答的な思考のありかたは、陰謀論的な想像力の特徴と酷似している。陰謀論者は、受験生が出題文に含まれるキーワードを反射的に拾って一問一答に回答するかのように、脱文脈化された知識をQ-Anonのワードマップのように断片的情報としてストックし、文脈に応じて反射的にアウトプットする。あらゆる事象を、因果関係の網の目からほどき、単純明快なものへと煎じ詰めて端的に語ってみせる陰謀論と、この一問一答的な思考は、非常に親和性が高い。とすれば、陰謀論的な想像力は、過剰な能動性を求められるようになった人間が、その認知特性を適応させた結果生じたものだと言えないだろうか。
4. 認知の検索汚染:アテンション・エコノミーが奪うもの
ここで、僕たちの社会が常に情報過多の状態に置かれており、関心や注目を得ることが経済的価値となっているという事実に、一度目を向けてみよう。古くはハーバード・サイモンが指摘し、ゴールドハーバーが定式化した、いわゆる”アテンション・エコノミー”と呼ばれる現象である。
マーケティングの世界では、製品やサービスの市場浸透率が低い場合、顧客の購買頻度(=ロイヤリティ)も低いというダブル=ジョパティの法則が知られている。要するに、モノやサービスは、コアなファンに深く刺さるような売り方ではなく、なるべく多くの人に一回でも買ってもらうような売り方をするべきだということだ。同じように、アテンション・エコノミーにおいて、企業は人の関心を集めるコンテンツをインプレッションデータをもとに計測し、反応されやすい情報形式に対する知見を日夜磨き続けている。その結果が今のネット空間における、虚実入り混じった情報の氾濫であることは、論を俟たない。
こうしたアテンション・エコノミー的な反応重視の情報の氾濫は、先ほど述べた人々に過剰な能動性を強迫的に要求する昨今の社会状況に支えられている。僕たちの知らねばならない/発信せねばならない/理解せねばならないという欲求はかつてないレベルまで高まっているが、それを満たすだけの認知資源が人類に備わっていない。結果として、本来時間をかけて理解するべきだった複雑性や文脈といった「事象」それ自体の重みを捨象した、明快でわかりやすい一問一答的コンテンツがばかりが摂取され、循環的にその供給を強化する正のフィードバック構造が完成しているのではないか。
こうした時代状況を、僕は検索汚染というネットスラングに準えて見立てる。検索汚染とは、本来探している情報と無関係な情報が検索エンジンの上位に表示される状況を指す用語だ。
例えば、歴史上の人物がオンラインゲームで取り上げられると、その人物の名前を入れて検索すると上位にオンラインゲームの攻略サイトが表示されるといったことが起こる。これが検索汚染されたブラウザの挙動である。同じように、わかりやすく人の関心を集める情報で形成された認知において、歴史上の人物はオンラインゲームのキャラクター以上の何者でもなく、その人物の持つ人生や経歴、人格といった背景情報は不要なディティールとして捨象されてしまう。アテンションエコノミーのもとで、僕たちの認知は、まさに検索汚染されていく。
認知の検索汚染が極まると、その事象に本来紐づく情報の質量は闇に葬られ、アテンションを得やすい一問一答的な軽量な情報だけが知識ネットワークに固定される。それは、固定的な因果関係のもとであらゆる事象を説明しようとする陰謀論な想像力に大変よく似たものになっているはずだ。時代のモードと認知の仕組みがもたらす検索汚染は、真っ直ぐに陰謀論的な想像力への繋がっているのだ。
5. 反証可能性:流動体として生きよ
ここまでのざっくりまとめ
能動性への要求=”自分の頭”で考えるべき
+
アテンションエコノミー=人の目に触れることに最も経済的価値がある
↓
一問一答的思考=情報の文脈を捨象し、”問い”に簡潔な答えを出す力
↓
認知の検索汚染=アテンションの高い情報だけで知のネットワークが固定化
↓
陰謀論的想像力=あらゆる事象の文脈を捨象し、固定的な因果関係で全て説明し把握しようとする力
陰謀論とそれに基づく一連の騒動は、一部の愚かな人々が巻き起こしている”喜劇”ではない。それは、僕たち人間が根源的に抱えている宿命的な病理の発露だと考えるべき、というのが僕の考えだ。冒頭で僕はこのように述べたうえで、どのような見立てによって斯様な意見を表明するに至ったかをこれまで説明してきた。最後に僕がなぜこのような陰謀論的想像力を問題視するのかを簡単に述べる。
陰謀論的想像力の問題は、それが全く固定的なものとして作用する点である。知的な対話は本来、他者も自己を絶えざる”訂正”と”前進”へ導く。あらゆる言明は暫定的なもので、常に建設的かつ批判的な議論に晒されることを宿命として受け入れなければならない。要は、対話が「絶対正しい」因果関係の取り交わしで終始するなんてことはあり得ないという話だ。しかし、陰謀論に染まった人は、絶対的な世の中の秩序を確認し強化し合うことに終始し、自動応答botのように刺激に対して決まった言葉を応酬するばかりになってしまう。それは、もはや対話とは呼べない。
カール・ポパーという哲学者は、科学の条件を「反証可能性」に求めた。自らが誤っていることを確認するためにテストを実行することができるもの、つまり自らを常に暫定的なものとして措定し反証に開くことができるもののみを科学と呼ぶべきだ、と言うわけである。
ポパーが科学に対して与えた定義は、陰謀論的想像力に対峙する僕たちにも大きな示唆を与えてくれる。強迫的に能動性が求められる時代、アテンションエコノミーは認知の検索汚染を加速させるばかりで、人々はより軽量で手軽に回答を与えてくれる一問一答的情報を求めるようになっている。そこで捨象されている文脈とは、あらゆる事象が本来備えている「自分の見え方と違う見え方があるかもしれない」という、事象そのものが持つ僕たちへの反証可能性である。
事象そのものが持つ反証可能性を見ないようにすれば、たしかに世の中は直線的で単純な因果関係で把握できるようになるかもしれない。知りたいという欲求は、発信したいという欲求は、よりインスタントに満たされるかもしれない。しかし、反証可能性に自分を開くことで本来得られるはずだった新しい物の見方や、それまで全く考えたこともなかった他者との出会いの可能性は、完全に断たれてしまう。僕にとっては、そんな状況を想像すること自体がたまらなく苦しい。固定的で閉鎖的な因果関係の中でしか物事を捉えられないというのは、何とも窮屈で面白くないではないか。
批判的対話に自己を差し出し、あなたの論理世界の外郭が常に撹乱され、揺らぎ続けることを楽しもう。サーフィンをしよう。波に乗ろう。あなたもわたしも、流動体として生きよう。そして、考えたことも聞いたこともなかった何かが、ある日突然自分の中に取り込まれてしまう興奮に身を浸していこう。その方が、陰謀論に染まるよりきっと楽しいよ。それが、陰謀論をめぐるこの議論に対する、僕なりの結論である。
6. さいごに
今回の文章は、以下の書籍への感想文として書いた。一問一答的思考という単語や、アテンションエコノミーをめぐる議論の構成は、そのまんま拝借している。時間をかけて解釈して、再度自分の言葉で語り直したかったので、そのようにした。
陰謀論的思考とまではいかずとも、一問一答的な思考、認知の検索汚染はごく一般的な現象として観察できる。僕は今28歳だが、周りの人間が「本を読めなくなった」「アニメを見れなくなった」「Short動画ばかり見ている」といったことを、ついに口にし始めた。人間の認知は、事象そのものの重みに耐えられない。見えない繋がり、隠された因果関係、他人から見えている景色、そういった文脈の重みに僕たちは耐えられない。耐えられないからこそ、ジッと立ち止まって僕たちが切り捨てている重みに思いを馳せる時間を持つことが必要なのだろう。無論、いつもそうしているわけにもいかないのだが。