Instagramについて語りたいのに語れないワケ
知らないからです、使わないから。語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。今から書くのは、これから考えようとしていることのラフ画です。
スーザン・ソンタグの『写真論』という古典があって、メディア論や表象文化論を学ぶ人はどこかで読まされる写真に関するエッセイみたいなアンソロジーなのですが、ソンタグはその中で、写真というメディアは人間の現実に対する見方の規範を変える、とんでもない力を持っているテクノロジーなんだと言います。写真は絵画に変わって現実を記録するメディアになったわけですが、いつしか写真が現実を切り取るものだという感性は逆転して、現実の見え方の方が写真のようであるべきだ、という内面を生み出すのだというのです。つまり、写真のおかげで現実への解像力が上がるのではなくて、現実の方が写真みたいに捉えられるようになっていくんだと。時代的に念頭にあったのはベトナム戦争のはずですが、地方に行ったら里山の風景を「ジブリみたい」とかいう現代人の感性をも、とてもよく預言していると思います。
これの何が問題かというと、まず写真はカメラを通じて切り取られた現実に関わる情報のある断片なことは間違いないのですが、現実そのものがそこに写っているわけてわはなく必ず人間の作為が宿っているという点にあります。カメラマンが写真に対して無人称であることはあり得ず、撮影という行為には誰かのなんらかの主体性や意思が介在するからです。つまり、写真は恣意的な形で加工された情報なのに、それが世界を客観的に記録するメディアであるかのように錯覚されていること。ここに問題があるのだと、ソンタグは考えます。写真が見え方の規範になるということは、写真を取り扱う人が恣意的に見え方の規範に介入することができるということです。だから、ソンタグは徹底して「見ることや撮ることの倫理」を考えようとします。倫理的に写真を、そして現実を見るためには、僕たちはどうしたら良いのか?という問題を立てるのです。
というのが、今から書くことのベースにある文脈です。僕は表象文化論を勉強したわけではないので、あとは割と妄想で書きます。
ご存知の通り、ユビキタスデバイスであるスマートフォンの普及によって、写真は記録から共有へとその性質を大きく変えました。いまや、撮影することと共有することは不可分の行為になっています。その意味で、写真は現実の見え方の規範であることは当然として、現実の記憶のされ方の規範としての性格を強めているように思います。どのような事実が記憶されるべきなのか、そしてそれらはどのように記憶されるべきなのかといった記憶に対する権威は、これまで書物や口伝といったメディアが独占していましたが、ここ10年であっというまに写真(含む動画)にとって変わられているように感じるのです。もちろん共有のプラットフォームはソーシャルメディアです。
「ソーシャルメディアに上がらない経験はなかったのと同じ」みたいな感覚が、最近の若い人にはあるらしいです。なんで私と出かけたことはInstagramにあげないのよ!というカップルの喧嘩を街中で見かけたことがあります。撮影する、共有する、人に見られる、評価やリアクションをもらう、これらの一連がセットで記憶のされ方の規範となっているのでしょう。余談ですが、僕は椎名林檎の熱狂的なファンだった時代の後遺症で、一切写真を撮りません。写真になると、アタシが古くなるからです。だから、写真共有を体験のコアとするInstagramは一切やりません。余談終わり。とりあえず、現実の記憶のされ方の規範として、写真の撮影とソーシャルメディアにおける共有という一連のサイクルがあるという見立てを置きます。
私たちの親密圏における人間関係は、いまや現実空間よりバーチャル空間における交流の方が多くの時間を占めています。生活空間を共にしているのでもない限り、友人や家族との関係において、生身の身体を居合わせるよりもInstagramやXやLINEで写真やテキストをやり取りする時間の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。友人や家庭といった私的な時間に加えて、仕事している公的な時間も勘定に入れれば、現実と相対している時間よりも、仮想世界に没入的に関わっている時間の方が全然多いかもしれません(ホワイトカラー限定かもしれませんが)。このことから、僕はある仮説を導きます。記憶のされ方の規範として書物や口伝というメディアが相対的に没落しているという次元を超えて、そもそも現実そのものが記憶のされ方の規範としての地位を失っているのではないか、と。
試しに考えてみてほしいのですが、どこか現実で起こっていることと、写真に取られてソーシャルメディアで共有されていること。両者の文字面を眺めた時、直感的にどちらに現実感を感じるでしょうか?僕と同世代の多くの人が後者を選ぶと思います。そして、ある年代より上の人にはこの感覚は一切共有されないでしょう。それは、記憶のされ方に対する規範として現実が持っていた力が、ある時期を境に衰退していることの証左に他なりません。
ソンタグを引いて述べたとおり、写真は現実の見え方に対する規範です。そしていまは、現実そのものさえも上回る記憶のされ方に対する規範となって、生活時間の大半をバーチャル世界に移行しつつある僕たちの認知システムを支えています。現実そのものではなく、Instagramにシェアされている写真の方にこそ、記憶されるべき事実が集積されているというわけです。
Instagramが斯様に記憶のされ方への強い規範性を持つからこそ、そこで行われる自己演出の応酬には、あたかもそこに「現実そのもの」があるかのようなせめぎ合いが生まれます。Instagramをどのように運用すれば、自分の思い描くセルフイメージを他者に与えることができるのか、フィルターや加工のテクノロジーをふんだんに利用しながら人々は日夜演出の技術を磨いています。ソンタグの言うとおり、写真はそもそも恣意的なメディアであり、不都合な事実は編集して切り落とすことができます。いくらでも自己を編集によって改竄できるという感覚が、終わりのない演出へと人を駆り立てます。そこには現実より余程強度のある現実が生まれます。
過日、ある友人と、私の知らないその友人の友人を交えて一席設けてもらいました。そこで、僕の友人はその方に「久しぶり!4年ぶりくらいだよね」と声をかけていました。そうであれば、彼女が結婚したこと、そもそも配偶者と交際し始めたこと、会社でどんな仕事をしているかなど一切知らないはずなのですが、その二人は、さも昨日まで一緒に毎日会っていたかのように情報が同期されていました。Instagramで見たから知ってる。その人が彼女と会っていなかった四年間、繰り返し繰り返し現実に彼女と会っている僕より、その人は彼女のことをつまびらかに知っていました。僕はその時、きっとこれから現実の方がおまけになるんだなと予感しました。僕が彼女と会って話していた現実はOVAで、Instagramに共有されている写真が正史なのです。だって、そちらの方がより多くの人に知られていて、認識されていて、イメージされているのですから。
勤めている会社で最近、リモートワークかオンサイト勤務どちらを選ぶべきかという議論が起こっています。僕は常々、関係の起点には必ず身体の共存を必要とするため、今はよくてもいつかは生身で現実に乗り出すことが必要であると考えてきました。ところが、最近どうやら、マジで、嘘だと思ってたんですが、Instagramの様なバーチャル空間の方が現実より現実感があるという感覚で生きている人が増えているらしいと直感するに至り、考えを改めるようになりました。多くの人にとって、リモートでしか顔を合わせない人とでもチームを組んで親密な関係を作ることができると、おそらく本当に実感されているのだと。僕は、生産性云々の議論は置いておいて、日々顔を合わせて言葉を交わしている人がバーチャルな空間にしか存在していない状況には耐えられません。それは端的にバーチャルな空間が僕にとっての現実ではないからで、他者が現実に存在していることが関係を取り結ぶために必要な条件だからです。そして、これは存外に大きな心境の変化で、僕は自分がこの社会においていまや老害化しているのだなと心底実感しています。
僕はInstagramをやっていませんので、今書いたようなことには、正直全く共感できません。何年も会っていない人同士が、昨日会ったばかりかのように会話しているのも不気味に感じますし、フェスの会場が舞台を録画するスマートフォンで溢れかえっているのも違和感でいっぱいですし、何の断りもなく自分が動画を撮られてInstagramのストーリーに上げられるのも抵抗を感じます。リモートワークも福利厚生的な観点での実施には賛成ですが、それ以外に対しては懐疑的です。今ここに存在している現実より優先すべきことなど、あるようには感じられないからです。
しかし、そんな感覚自体がいまや時代遅れになっていて、この話も殆ど通じないのだろうということに、やるせなさを感じます。Instagramが記憶のされ方の規範なのであれば、僕の「記憶」はどこにも残らないのですが、確かに今ここで真っ暗な部屋で端末を眺めている身体より、Instagramのストーリーに上がっている身体の方がよほど公共的で記憶されるべきものなのかもしれません。加工やフィルタリングによって記憶のされ方をコントロールできる主体性が大きい点でも、Instagramは人間にとってある種救いなのかもしれません。でも、僕にとってはやっぱり、人間は現実に傷んでいる身体を持っていることが人間の証左であり、その事実を持ってしか関係だって記憶だって、社会だって生まれないと思うのです。違うのかなぁ。