
「リベラリズム」と「リベラル」の何が違うのか よくわからないあなたへ
政治に関心を持つ人が増えるのは良い事だ。しかし政治哲学には、その他多くの諸学問と同じように、多くの人が挫折してしまうポイントがある。その一つが、「リベラリズム」と「リベラル」という言葉の多義性とねじれである。そこで、このnoteでは、めちゃくちゃ簡潔に「リベラリズム」と「リベラル」という単語について整理し、あなたの脳内をスッキリさせることを目指していく。あとは、各々で好きなように語れば良いだろう。To Each Their Ownである。
超ざっくり話を始めよう。「リベラリズム」というのは、生まれたての時は統治権力からの個人の自由を擁護する発想であった。起源にあるのは社会契約論者であったジョン=ロックである。ロックは個人の「生命権」や「所有権」を「自然権」(=すべての人が生まれながらにして保証されるべき権利)として捉え、これが保証されるために人々が自然権の一部を「信託」して国家という共同体を立ち上げるのだ、という物語を描いた。つまり国家の役割は、個人の財産権が守られるような規制を作ったり、不届きものに対しては暴力の行使を行うことにあると考えるわけである。このように、自然権を擁護する役割を最小構成として、国家の不必要な拡大を抑えようとする発想が、「リベラリズム」の根底にある。
「リベラリズム」の発想は17世紀から18世紀にかけて西洋諸国に広がっていく。1688年の名誉革命、1776年のアメリカ独立革命、1789年のフランス革命は、すべて「リベラリズム」の発想を実現するための政治権力が打ち立てられた市民革命であると考えてよい。それぞれに立ち上がった統治の形態は異なっているが、発想は同じで「国家からの個人の自由」である。ロックは国民の信託を裏切る統治権力に対する革命権を認めている。「リベラリズム」の根源的なイメージには、国家という統治権力の拡大を警戒し、なるべくその役割を小さく止めようとするというものがある。
かような「リベラリズム」の発想は経済学者の間で発展し、有名なアダム=スミスが自由な競争に基づいて経済を発展させるべきだという自由放任主義を唱えていく。経済学の領域では、20世紀後半に生じた新自由主義と区別するために古典的自由主義と呼ばれる思想である。アダム=スミスは国家による経済への介入を強く批判し、神の見えざる手が自由主義経済を発展させていくという物語(これをレッセ=フェールという)を描く。ここにも、「国家からの個人の自由」というイメージが現れる。このような「リベラリズム」の発想は、国家は自然権を擁護し経済秩序を守るために必要最小限の警察権のみを行使するべきだという「夜警国家」論につながる。ちなみに、ハイエクやフリードマンの「新自由主義」も、ノージックの「リバタリアニズム」もこの古典的自由主義の流れから生じている。
ここまで述べたことはシンプルだ。「リベラリズム」とは「国家からの個人の自由」を意味している。自由とは、生命権や財産権といった自然権を何人たりとも犯されることなく守られることである。では一体全体、私たちが日常的に触れている「リベラル」と言う言葉は何を意味しているのか。それを理解するには、「リベラリズム」という概念が辿ってきた奇妙な歴史を紐解いていく必要がある。
19世紀になると産業革命が進展し、都市化や工業化が進んだあらゆる国家に「格差」が生じる。こうなると、自由放任によって人が自由になるという物語の信憑性が薄くなっていく。簡単な話、15時間毎日働いて過労死している人間がそこらじゅうにいるという状況に対して、人々の自由が保たれているとは到底思えないという発想が生じるわけである。このあたりで、それまでの「国家からの個人の自由」に基づく最小国家の発想が転換され、「国家が積極的に個人の自由を守るべきである」という発想が生まれる。つまり、本来的な意味での「リベラリズム」(= 国家からの個人の自由)の意味から反転したものが同じ「リベラリズム」(= 国家による個人の自由)という言葉で語られるようになるのである。
抑えておくべきなのは経済学者のケインズである。中学の教科書にも出てくる大思想家であり天才経済学者でもあったケインズは、大恐慌に喘ぐアメリカで、ニューディール政策の思想的ブレーンとして(政策的には反対していたが)、国家による経済への介入と有効需要の創出を積極的に支持した。これを推進したのはフランクリン=ルーズヴェルトが率いるアメリカ民主党であり、彼らは自分こそが真の「リベラリズム 」の価値を体現する者だとして「リベラル」を名乗った(ここから社会民主主義という概念が発展し、国家が国民を「ゆりかごから墓場まで」世話するべきだという戦後福祉国家の雛形が生まれる)。ここにめでたく、現在に至る「リベラル」と「リベラリズム」の捩れが誕生する。
つまり、「リベラル」とは「国家が積極的に個人の自由を守るべきである」という発想を「リベラリズム = 国家による個人の自由」の真の思想であると捉えそれを実践する者たち、それも具体的には主にアメリカにおける民主党とその支持者を指す用語なのである。これは古典的な意味での「リベラリズム=国家からの自由」の用例からは180度反転しているが、これはアメリカの歴史における経路依存性の問題であるから、ややこしいのは仕方がない。
この「リベラル」的な意味での「リベラリズム = 国家による個人の自由」は、政治的には正義や公正という価値を支持し、経済的には国家の積極介入と再分配を支持する。「リベラル」の戦後の代表的な(というか唯一にして最後の)論者はジョン=ロールズである。僕はジョン=ロールズの思想は個人的に大好きなのだが、彼は80年代にマイケル=サンデルらコミュニタリアンとの論争に敗北して「リベラル」は思想的な普遍性を持たないということを認めてしまう。それから「リベラル」という思想を普遍的な形式でまとめ上げることに成功した思想家はいない。
さらにややこしいことに、アメリカでは共和党とその支持者が古典的な意味での「リベラリズム=国家からの個人の自由」を支持し、「保守派」を名乗っている。つまり、アメリカに存在しているのは古典的な「リベラリズム=国家からの個人の自由」と20世紀以降の「リベラリズム=国家による個人の自由」との対立であり、前者が「保守」を名乗り、後者が「リベラル」を名乗っているのである。周知の通り、アメリカにはヨーロッパ的な意味での保守主義(エドマンド・バークの保守主義!)も社会主義も政治的勢力として存在しない(そもそも守るべき伝統がなく、社会主義勢力は冷戦時代に壊滅した)。それゆえに、アメリカにおける政治的対立は、「リベラリズム」の解釈をめぐって生じているのである。
さらにさらにややこしいのは、日本が戦後アメリカ政治における「リベラル」の用例を持ち込んでしまったことだ。つまり、日本において「リベラル」とは、20世紀以降の「リベラリズム=国家による個人の自由」を指し、しかも古典的な意味での「リベラリズム= 国家からの個人の自由」なニュアンスがごっそり抜け落ちてしまっているのだ。しかし、冷静に考えてみると、戦後日本において「リベラル」=「リベラリズム=国家による個人の自由」的な政策を実践してきたのは自民党に他ならず(自民党は都市から集めた税金を地方に再分配する農村型福祉政党であり、都市部は伝統的に社民党などの野党が強かった)、ゆえに野党が「リベラル」を名乗ることの意味が全く不明になってしまっている。
日本において自民党とそれ以外の政党をめぐる政治対立の軸は、社会党の崩壊以降はほとんど存在しない。唯一の政治的対立の軸があるとすれば、小泉政権以降の自民党が社会アジェンダにおける右傾化を強め、これに対して民主党系の政党が社会アジェンダにおける革新化(例:同性婚、女性活躍、外国人受け入れなど)を強めている、というくらいのものだ。そして、現状では後者が「リベラル」を名乗ったりあるいは名指されており、日本政治において「リベラル」は、西洋世界において展開されたあらゆる歴史や意味が忘却され、何となく社会的に革新 or 左翼よりのアジェンダを唱えている人々、というニュアンスで使われるだけの言葉と成り果てた。何とも虚しい話である。というのが、この記事のなんとも締まらない結論だ。
というか、そもそも日本人が「リベラル」や「リベラリズム」という概念をうまく使えないのは、「リベラリズム」の思想伝統がないところに無理やり概念を換骨奪胎して輸入し利用しているからであって、それは市民革命を経験せず、戦後の民主化もアメリカの手によって行われた結果、政治について真剣に考える能力が育たなかった結果だとも言える。江藤淳は草葉の陰で嘆いていることであろう。本来、日本政治の対立軸とは「保守」(反理性主義的伝統主義)と「革新」(理性主義的改良主義)にあるのに、そこに「リベラリズム」という西洋の異物を当てはめようとするからこんなことになるのである。
最後に個人的な見解を述べる。私はゴリゴリの「リベラリズム= 国家からの個人の自由」論者である。もっといえばリバタリアンの信者で、もっともっと言えばリバタリアン=パターナリズムの信者である。そして「リベラル」は、戦後のある一時期だけ特殊な歴史的条件によって奇跡的に機能したものの、政治的にも思想的にも「終わった」ものだと捉えている。ロールズの正義論はとても良い本だけれど、「リベラル」としての思想的敗北は、文系の大学生が基礎教養で勉強する程度には認められた事実である(私の大学時代の政治の期末試験の問題は「リベラル=コミュニタリアン論争について論述せよ」と言うものであった)。
だが、こんなことを説明するのも面倒だし、しかも説明したところで理解されないのが経験的にわかっているので、いつも政治思想を聞かれたら少なくとも保守ではないという意味で「リベラルで〜す!」と名乗ることにしているし、今後もそうすると思う。やれやれ。
なお、本稿の内容は全て筆者の主観的な記述によるもので、特定の思想を支持する意図で書かれたものではなく、また記述の正確性や客観性は担保されていない。勢いに任せて書きつけた殴り書きである。また、私は政治学に対して何らまとまった学術的指導を受けていない一介の民間人(学士)であり、「リベラリズム」と「リベラル」をめぐる奇妙な歴史に関心を持ってくれた方がいれば、ぜひ博士号を持っている立派な先生方が書かれている政治哲学の著作をお読みになっていただきたい。井上達夫先生などは、この記事を読んだら、私のあまりの浅学菲才ぶりに激昂されることだろう。
気が向いたら、思想としての「リベラル」がどのように死んでいったかを続編として執筆しようと思う。