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生き延びるための"貸し借り" 〜贈与をめぐる考察〜

電子決済手段が生活の隅々まで浸透した結果、金銭の「貸し借り」を作る機会がすっかり失われている。ちょっと前まで飲み会の席で幹事が「あ〜〜小銭面倒なので3000円で!」とか言って小銭をちょろまかすことなんて、当たり前すぎて誰も指摘しないくらい常識的な事象だったはずだ。僕の第二の故郷である中国では、Z世代を世代的な境界として、それまで存在しなかった「割り勘」(AA制という)カルチャーが浸透した。「ここは自分が!」と言って会計に立つのが、親密な人に対するマナーであり礼儀であったし、会計の取り合いをすることが「継続的な関係」に対するコミットメントとして文化的に重視されていた(僕の同年代はデジタルネイティブの境界線に位置する世代なので、AA制を嫌う人もたまにいる)のだ。

こうした小さな「貸し借り」の前提にあったのは、現金のユーザビリティの低さだろう。日本人は小銭を多く持つのを非常に嫌い、中国人は偽札が横行する影響で現金に対する信頼度が非常に低い。このような現金とそれを取り巻く社会が、人々の生活の隅々に小さな「貸し借り」のネットワークを作り上げることを可能にしていた。今やどうだ。電子決済手段の浸透によって、1円単位で金銭貸借関係を「精算」することがあまりにも容易になってしまった。おかげで、僕たちの生活からは「貸し借り」を作るチャンスがとんでもない勢いで消えている。それは、場面場面であらゆる人間関係を「精算」することへと、人々を強迫的に駆り立てているように思う。

かつてあった小さな「貸し借り」の重要なポイントは、それが「精算」されるかどうかに頓着しないことにあった。飲み会で200円程度をちょろまかされたことを「精算」すべき「借し」だと捉える人はそういなかったはずで、逆もまた然りだったはずだ。それは貨幣経済の中で、わずかに「贈与」的なものが取り交わされる瞬間だったのではないだろうか。つまり現代は、技術の進化が1円単位での「精算」をシームレスに行うことを可能にしたがために、「贈与」的な関係を築くチャンスが非常に少なくなっていると僕は感じている。

いやいや、自分は誕生日にプレゼントを送ったりしますよ!それは「贈与」と違うのですか?!という意見もあるかもしれないが、それは僕が意図している「贈与」とは、「全く」違う。誕生日プレゼントにおける「贈与」は、お互いが似た金銭的価値を持つ何かを送り合うことで、お互いの社会階層的平等を確かめ合うための儀式である。たとえば片方がべらぼうに高い誕生日プレゼントを送ってくる友人をあなたが持っているとしたら、きっと奇妙に(あるいは不快にすら)感じるはずだ。この人、お金があることをマウンティングしてるのかしら…とか、この贈り物には何か意図があるのかしら…と。もっとも、マルセル=モースという文化人類学者はこうした贈与の性質を「互酬性」と呼んで非常に重視している訳で、「贈与」という行為の一側面に、互いの社会階層的な平等を確認し合う意味があることに間違いはない。


一方で、僕は「贈与」における「貸し借り」の「余剰」に強く注目する。確かにモースの言う通り、「贈与」にはお互いの「貸し借り」をなるべく0に近づけたい(=「精算」したい)という欲求を惹起する性質がある。一方で、「貸し借り」を0にすることなど実際は不可能なのも事実だ。この先あらゆる価値交換のトランズアクションが全てデジタル化し、全ての貸借関係が容易に参照できるようになったとしても、それでもお互いに「貸し借り」が全くない0の状態なんていうのは、あり得ない。それは、金銭だろうと何らかの体験だろうと、同じamountがどの時間軸でも同じ価値を持つ訳ではないからだ。苦しい時にかけてもらった言葉、奢ってもらった食事、貸してもらったお金は、同じamountを返したところで返しきれない「借り」になる。「贈与」が持つ「貸し借り」の「余剰」はamountの外側にある。そして僕は、この「余剰」こそが、返しきれない「貸し借り」という形で、僕たちの社会に繋がりをもたらしているのだと考える。

文化人類学者の小川さやかは、タンザニアの露店商の参与観察を通じて独特な「贈与」のネットワークを読み取っている。タンザニア人は、稼いだお金だろうが、苦労して手に入れたものだろうが、何だって気前よくあげてしまう。彼らにとって「贈与」は生活の隅々まで深く根付いているが、決して「貸し借り」をすぐに「精算」したりはしない。ある日気まぐれにふらっと作った借りを、10年後に返してもらったりする。小川はそれを、自分の「分身」を作っているようだと表現する。自分に「借り」を持っている人をたくさん作ることで、「分身」のネットワークを作り相互扶助を成立させる。気前よく送り、気前よく受け取る。タンザニア人は預金が一銭もないのに誰かにお金を借りてビジネスを始め、余裕で大失敗したりする。普段から「貸し借り」のネットワークを作っているからこそ、こうしたレジリエンスが生まれているのだろう。


小さな「貸し借り」を作るというのは、だから、「余剰」によってつながるネットワークを作っていくことなのだ。僕は自分の持っているものを気前よく与えるよう心がけているし、また、自分の必要なときにちまちま返してもらうことを心がけている。本を貸す、ご飯を奢る、知識や関係を渡す、家に泊める、エトセトラ。そして、重要なのは、「貸し借り」をすぐに「精算」したいとか、「精算」してほしいと思わないことだ。デジタル化によって僕たちは、あまりにも強く繋がりすぎている。債務を返済することがボタンひとつで完了する社会は、あらゆる「貸し借り」をデジタルなamountに還元し「精算」への強迫的な欲求を惹起するが、そうではない。「貸し借り」は、amountの外側にある「余剰」を通じてネットワークを作る手段である。気前よく与え、気前よくもらうための技術なのだ。いくつか送ったものが帰った来なかったとて、良いではないか。分散投資はリスク回避の基本的なテクニックの一つだ。

こういう小さな「貸し借り」を作ることが難しくした戦犯は、冒頭で述べたデジタルな金融テクノロジーの進化であろう。あらゆる関係を断面的に、刹那的に解消したいと思う欲求が「送金」ボタンを押すだけで満たされてしまう。インスタントに「貸し借り」の関係を「精算」できてしまうせいで、それがもたらしてきた「余剰」への想像力が失われているように思う。本当は金銭だけではなくて、知識も愛情も「この社会」そのものでさえ、誰かから借り受けたもので、それを「精算」することなんて到底できないはずなのだ。だからこそ、僕は気前よく渡して、気前よくもらえるような「余剰」のネットワークを作りたい。生き延びるモチベーションを保つためのコツは、いろんな誰かにちょこっとずつ借りを作っておくことなのだと思う。

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