【自己紹介】大きな挫折を経て
はじめまして。
現役のフリースタイルフットボーラーそうたと申します。
まずは僕の基本情報と経歴です。
※微妙なニュアンスを伝えるため、『ですます調』と『だである調』が混在しています。統一した方が良いか最後まで迷ったのですがやっぱり口語のニュアンスに近づけたいと思い、敢えてそのように表現しています。細かい粗探しはせずに、表現の一種だと思って読んで頂けると嬉しいです。
基本情報▼
現役のフリースタイルフットボーラー
渡航国数は約20ヵ国
Webサイトを作ったり動画編集をしたり、IT技術領域が大好き
経歴▼
今回の記事では、過去の挫折体験をテーマとして扱っています。
中学時代から16歳の大きな挫折体験、そして現在に至るまでの軌跡を時系列に沿って叙述していきます。
僕の原体験から、周りと比較をして劣等感を感じている人や自分はこんなはずじゃないと燻っている人に勇気を与えられたらなと思います。
もちろん、そうではない人にも今後の人生における示唆が得られるように設計はしているので最後まで読んでもらえたら嬉しいです。
もっと詳しく▼
幼少期は温室育ちのおぼっちゃま
13歳の自分が教えてくれたことは
"自分は頭が悪いと思い込むな"
中学時代、いわゆる"優等生タイプ"だった。
成績は良くて学年2位、悪くても学年10位だったかな。
模試での成績は偏差値73とか取っていた。
ヤンチャしていたエピソードとか全く無いし、女と遊びまくってたぜぇみたいなエピソードも、タバコ吸いまくってたぜぇみたいなエピソードも皆無。
どの科目も90点以上取って、授業もちゃんと聞いて、提出物もちゃんと出して…っていう絵に描いたような真面目くんだった。
ただ、勉強マシーンだったかと言うとそんなこともなくて、サッカーでは1年生の時に3年生の試合に出させてもらっていた。あとは、今となってはもうどんな人だったか全然思い出せないけど彼女も普通にいた。
これが当時の自分の基本的な思想です。
今でも変わっていないです。
生まれつき特別な記憶能力が備わっているわけでも常人離れした計算能力を持っているわけでも何でも無くて、ただ人よりもサッカーの練習や勉強に費やした時間が長かった結果に過ぎないと考えている。
勉強時間0で世の中に無い新しい概念を創造するのは僕には不可能だけど、考え方や記憶の仕組みさえ知ってしまえば最適な解は導き出せる。
結局は知っているか知らないかの差に過ぎない。
だから自分は頭が悪いと悲観する必要は全く無い。
知らないのならば知っていけばいいだけ。
高校は埼玉県のサッカー名門校に進学した。
今はもう状況が変わってしまっているかもしれないけど、当時の部員数は1学年40~50人、一番下手な人でも地域選抜レベル、一番上手い人はJリーガー内定というレベルだった。
この環境で活躍できればプロは全然目指せるんじゃないかな。
それから実際に入学をしてみると、偏差値70って普通だよねみたいな世界線だったので、ぶっちゃけその中では全然成績良い方ではなかった。
中学までは間違いなく出来る方だったはずなのに、高校での成績は平凡以下、毎日劣等感に苛まれていた。
一方で人生の比較的早い段階で天狗になっていた鼻っ柱を見事にへし折られたのは後々の人生に大きなプラスに繋がったかなと。
自分は頭が良いと思い込むことも、慢心することも無くなったので。
大きな挫折を経験したのは"16歳"
無事に受験を突破して名門のサッカー部に入部したものの、16歳の時に大怪我をしてプロサッカー選手の道を諦めた。
当時の記憶はもうほとんど無い。
より正確に言うと、あまりにも辛すぎて思い出そうとすることを拒否しているのかもしれない。
今こうして文章を書いている時も当時の辛い記憶が断片的に蘇ってきてしまうのだが、どうやら僕は練習中に左肘から落ちてしまったらしい。
その瞬間に骨が砕けるような鈍い音が聞こえ、気がついたらもう病院に運ばれていた。
麻酔が切れた痛みで目が覚め、自分は暗くて静かな病院のベッドの上で独り天井を見つめていた。
医学の領域は門外漢なので難しい専門用語は全く分からないのだが、小学生でも理解できる平易な言葉で表すと『骨折のよりヒドい状態』らしい。
対人系の競技はもうしばらく出来ない。
万が一転んだり人にぶつかったりしたら一生取り返しがつかないことになってしまう。
怪我が完全に治る時期は恐らく18歳手前。
もう高校3年生になってしまう。
仮に完治したとしても、半年以上のブランクを埋めるのは容易なことではない。
大人になった今でもふとした瞬間にあの頃の記憶を反芻してしまう。
経験したことの無いネガティブな感情と左肘の強烈な痛みに襲われ、自分の中で何かがぷつんと切れてしまったような音が聞こえた。
退院後、僕はしばらく学校に行けなくなってしまった。
人間は本当に脆い。
体の傷は時間が経てばいつか治るけど、心に負ってしまった傷は多分一生消えない。
その心の傷をプラスに転用出来るか、マイナスの方向へ堕落してしまうかはその人の器量次第なのかなと思っている。
今の僕はあの頃の苦痛や経験を努力やモチベーションの糧として使い倒すことが出来ているが、残念ながら当時16歳の僕が受け止めるにはあまりにも重たすぎる現実だった。
沢山悩んだ結果、サッカーもこの時点で辞めた。
間違いなく人生で1番辛い選択だった。
もちろん当時の僕の選択に賛否両論があることは承知している。
第三者から見てカッコ悪いことも理解している。
しかし、自分の選択に後悔は無い。
結果的にフリースタイルフットボールという第二の人生に出会えたのだから。
また、その競技を通じて世界中に素敵な仲間が沢山出来たのだから。
こうして僕の一度目の人生はここで終了した。
それから17歳の時は色々あって学校に行けなかったり、放課後にリハビリをしていたり、サッカーを続けたいようなもう一生やりたくないような葛藤、あとは進学校ゆえの受験のプレッシャーと闘っていた。
眠りにつくと黒い濁流に飲まれる夢を見たり、
ストレスが原因なのかまぶたが痙攣したり、
最寄りの駅に向かう途中突然涙が出てきたり、
動悸が止まらなくなったり、
明らかに心身に異常をきたしていた。
目標なんて何も無かったと思う。
なんでこの学校に入ったんだろう。
本気で行きたい大学も、本気でなりたい職業も、夢中になれる趣味も何も無い。
一般的な集団の中では優秀な部類でも、優秀層に入ってしまえば自分には何の個性も強みも無い。
なんのために中学時代ずっと頑張ってきたんだろうって。
とにかく毎日がすごく辛かった。
高校を卒業しても気持ちが全く晴れなくて、毎日屍のような生活を送っていた。
特に行きたいわけでもないアルバイトに行って、溜まったお金も特に何にも使わず、友人との遊びや飲み会、合コンにも全く行かず、ずっと暗い図書館に1人で籠っていた。
19歳の自分が見ている世界は全てが灰色で、輝きが無くて、このまま就職して社畜として一生を終えてしまうのかなという強い不安と劣等感に苛まれていた。
毎日そんなことばかり考えていた。
人生の転機は"20歳"
恥ずかしながら20歳手前まで自堕落で怠惰な生活を送ってしまっていたのだが、やっぱりこのまま人生終わるのは嫌だ!
こんなところで腐ってたまるか!!
っていう気持ちから、20歳の時にフリースタイルフットボールを始めた。
フリースタイルフットボールを始めたキッカケは?
と聞かれても、正直上手く答えられない。
ただ1つだけ明確なことは
今の自分の人生を変えたい
という確固たる強い意志を持っていたこと。
それから元々サッカーをやっていた影響なのか、サッカーを辞めた後もYouTubeでネイマールやマルセロ、日本人だと乾選手のサッカー凄技動画をよく観ていて、それが最初のキッカケになったんだと思う。
自称サッカー詳しいおじさんからすればマルセロは守備をしないとか色々言いたいことはあるのだろうけど、それでも足元の技術が世界トップクラスに高いのは誰がみても一目瞭然だし、サッカーをあまり知らない人がみてもやっぱりネイマールのドリブルや華麗な足技は本当にワクワクする。
それから高校生の頃に購入したボロボロのトレシューとリフティング専用ではない普通のサッカーボールを取り出して、早速練習を開始した。
元々サッカーをやっていたとは言え、サッカーとリフティングは全くの別競技である。当然、最初は僕も回し技どころか普通のリフティングすら満足に出来なかった。
最初は地道なリフティング練習から、それから毎日毎日練習をして、少しずつリフティングが安定してできるようになっていった。
毎日少しずつ上達していくのが本当に楽しかった。
空いている時間は全て練習に費やして、時間を忘れて没頭していった。
好きこそものの上手なれという言葉は間違っていないと思っている。
自分も最初から壮大な目標を持っていたわけではなくて、純粋に練習が楽しいから打ち込んでいたっていうのが大きいよね。
プロ野球選手のイチローも以下のような言葉を残している。
競技は違えど、自分に影響を与えた人物の1人であり、今でもずっと心に残っているフレーズの1つである。
それから僕は少しずつ出来る技が増えていった。
もう一つの顔は"自称海外渡航のプロ"
渡航国数は21歳の時点で20カ国くらいです。
20歳の8月にイングランドのカンタベリー(ロンドンから1時間くらいの街)に渡航して、そこからフランスのパリ、タイのバンコク、ベトナムのハノイ、ベルギーのブリュッセル、アントウェルペン、オランダのアムステルダム、ユトレヒト等、21歳の時点で20ヵ国程旅してきました。
最初にイギリスへ行く時も明確な理由は無くて、
なんとなく行ってみたい!興味がある!
っていう気持ちから渡航を決めました。
実際に行ってみるとイギリスに滞在していた1ヶ月弱の短い期間は本当に幸せで、もっと世界の色んな国をみて周りたいという気持ちを増幅させることになりました。
これは現在の僕がかなり大事にしている考えです。
何もアクションを起こさないことによる機会損失は後で死ぬほど後悔するからね。
スウェーデンまで行く時は特に旅行代理店等は使っていないくて、40000円の片道航空券だけ買って、そのまま陸路でヨーロッパ1周を達成した。
現地では、イタリアで野宿したり、ハンガリーでパフォーマンスしてお金貰ったり、道を歩いていたら暴言を吐かれたり、おいそこの中国人金よこせって言われたり、ベルギーの子供にサッカーボールをプレゼントしたり、酸いも甘いも色々経験している。
みんなが憧れるような美しい観光地だけでなく、路上で必死に物乞いをする人々の現実や銃弾が撃ち込まれた建物、寒空の下路上で生活をせざるを得ない子供達とか、そういう暗く冷酷な現実も沢山見てきている。
自分1人で世界の現実を変えることは難しいけど、自分のパフォーマンスで1人でも多くの人に勇気を与えられたらなって思う。
サッカーボール1つで子供達に感動を与えられたら、現地の人々に興奮を与えられたら、それは本当に素敵で夢のあることだと思うよね。
今の俺にはそれを実現できる行動力と最低限の技術は手に入れた。
あとはやるだけ。
帰国後〜現在
それから帰国後は独学でiOSアプリ開発を学んだり、TikTokを頑張ってみたり、営業のインターンに参加してみたり、動画編集を学んでみたり、RailsでWebアプリケーション開発を学んでみたり、モラトリアムといわれる期間を有効に使い倒し色々なことに挑戦していた。
結果的に優勝は出来なかったけど、世界一周コンテストにも出ていた。
有名なTikTokerさん(当時は100人いなかったのに今はフォロワー10万人)と一緒にお仕事をしたり、フリースタイルフットボールの練習仲間と撮影に行ったり、ささやかだけど趣味に没頭できて幸せな時期だったと思う。
22歳を迎えると、スポーツ系スタートアップでフロントエンドエンジニアとして働き始めた。
名前は伏せるが、当時の僕を拾ってくださった社長には本当に感謝しかない。
もちろん、一緒に働いた同僚や僕にエンジニアとしてご指導くださった先輩にも感謝している。
もし将来自分が起業をして事業が大きく成長したら、当時お世話になった社長へ恩返しをしたい。
それから紆余曲折を経て、現在はインフルエンサーマーケの会社で働いている。
正直、今関わっている人たちは最高だと思っている。
これだけ苦楽を共にしたら、もはや家族なのではないかと。
大変なことも多いけど、それを勝るような刺激的で学びの多い毎日を過ごすことが出来ている。
そこで得られた素敵な仲間と貴重な経験は僕にとって宝物です。
最後に、今の僕を見つけてくださってありがとうございます。
世間的に有名になってから、あたかも昔から応援していたかのような言い方をする人が多い中で、まだ何者でも無い、無名で発展途上の僕を見つけてくださったのは本当にありがたいことだと思います。
今回の記事から何か新しい学びや気づきが得られたら僕にとっては最高に嬉しいことです。
まだまだ未熟ですが、これからも応援頂けますと幸いです。
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました!