教育社会学者の育休日記♯6 我が子に少しでも関わりたい湧き上がる衝動
ついに育児が始まった。
自分は、どちらかと言えば家事をしないよりはする人間だと思う。
清潔感や料理の腕前、家事の段取り力、知識、こだわり、すべてにおいて妻が勝るという認識は強くもっているものの、料理も洗濯も掃除もやる。
まめに掃除をして清潔を保つ妻の作法を見習って、料理をしたらその日のうちに五徳を外してコンロをうたまろ(洗剤)で拭くし、コンポストに毎日生ゴミを入れて土をつくり、その土でシソやらバジルやらも育てる。
4:6とまでは言わないが、3:7よりはやってるよね、と妻に言ってもきっと悪い顔はしないと思う。
ちなみにルールも役割分担も当番も、我が家には一切ない。気づいた方がやる。もう片方も参加してできることをやる、が基本。
そのことを、至極当たり前のことだと思ってもいる。ともに働き、ともに生きているのだから、互いにやるべきだし、そこでは互いが気持ちいいことが何より大事だと思っているし、決めずにやり合うことが互いが互いに感謝を向け合い思いやり合うことにつながる。
そのことを非常に合理的な選択だと思っている。
そんなふうにやってきたその他大勢の家事と、育児、おそらく異なることはたくさんあるというか、そもそも全く違うものという前提で捉えるべきなのだろうが、今日気づいた大きな違いがある。
育児には、「自分がやるべき」、「自分がやった方が良い」ではなく、「自分がやりたい」が立ち上がり、それが案外やっかい、ということだ笑
妻は職業柄、誰かのケアをすることに長けている。知識もあれば経験もある。新生児は未経験だが、我が子への愛情が相まることで、そりゃぁもう、どんどん育児の手際はよくなるし、授乳はもちろん、おむつ交換、沐浴、どんどん熟達していく。
他の家事であれば、効率的にやれることはやれる方がやればいいと思っている。手が空いてる方がやる。どちらかが何かをやっているのを見つけたら、自分は他のことをやる。
適材適所というか、持ちつ持たれつというか、そんな暗黙の了解が生む心地よい協働がある。
ただ育児は違うのだ。
育児は、自分のなかに大きな「やりたい」が立ち上がるのだ。
妻の方がどう考えても得意。自分は、組み立て式のベビーベッドを組み立てたり、ふとした買い出しをしたり、確かにその方が協働として合理的だ。
でもそうじゃないのだ。
我が子に関わりたいのだ。
どんなに下手で、母がやるよりも我が子に不快な思いをさせてしまい、泣かせてしまうとしても、どうしても、彼女と関わりたくて仕方がないのだ。
「いつかくるワンオペのため」
「妻を楽にさせるため」
「妻に見てもらってるところでできるようになっておいた方がいいよね」
ちがう、すべて、ちがう。
ただただ、ただただ、もっと我が子に触りたいし、関わりたいし、何かをしてあげたいのだ。
ただそれだけの衝動がある。
うまくもないので、サクッとはできず、挫折。妻がなんなくやってのける姿を見てまた挫折。次のチャンスを探すが、自信を失い悩みつつ、何度かスルーしてまた取り組んで、またうまくはいかず。。。
それでも、関わりたいのだ。
こんなにも非合理的で、コントロールの効かない欲求はなかなかない。
これこそ、湧き上がる衝動か。
こんな感情に出会えたこと自体に感動さえ覚えている。
そんなことを続けて、娘を苦しませ続けるのは本当に忍びないので、明日はもっとうまくやれるようになるぞ!と誓って、寝るのである。
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