教育社会学者の育休日記♯16 抱っこは親のエゴか愛情表現が ネントレから思うこと②

ネントレ3日目。
あまりにも辛すぎる時間を過ごし、我が家は今日をもって、メソッドとしてのネントレをやめることにした。

ベッドにおいて、自ら寝るのを待つ。泣いてたとしてもひたすら待つ。
あまりに泣いてると、一度部屋にはいって寝るのをサポート。
3分、5分、7分、9分、12分と、待つ時間を延ばす。

愛する我が子が泣いてるのを待つその時間があまりにも辛すぎること、そして今夜、延々泣き続けた我が子があまりにもキツそうで抱き上げたとき、誤嚥して喉が詰まりそうになるアクシデントがあり、それが大きなきっかけとなって、終了を決めた。

これからは、授乳後の寝落ちをなくす、寝るのはベッド、リズムを作る、という緩やかな目標を北極星としておきながら、日々を過ごすことに決めた。
そしてこの3日間大変な想いをした我が子を明日からはたくさん抱きしめて、愛情をしめすことを(ネントレを批判するわけでも否定するわけでもなくて、ただ、自分たちには向かなかった、ということを理解した)決めた。


たった3日、されど3日。
振り返るといろんなことを思い、体験した。


抱っこしながらの寝かしつけを手放す努力を初めてから、「抱っことは親のエゴだったのか?」という思いが頭に浮かんだ。
生後一ヶ月、子どもにとっては感情より快不快の方が重要(あるいは親が寄り添ってくれてどうこう、いなくて寂しいみたいな感情はまだないなんて論も)、そのことを取り除くことが親の役目、なんて言われたりする本もある。

だとしたら、我々親はなぜこうも抱っこをするのか。


抱っこは気持ちいい。
シンプルに柔らかくてふにふにしてて、ただただ気持ちいい、というのはもちろん、我が子を特等席で眺められる幸福もあるし、表情の変化を受け取りながらいろんなことを思う。
楽しすぎる至福の時間だ。

ただそれは転じて、「自分がいないとこの子はダメなんだ」といった感情にもつながる。

いや、確かにそうなのだ。他の動物に比して、哺乳類のなかでも圧倒的に脆弱に産まれてくるのが人間の子どもだ。
肥大化した脳を持つ人類は、産道を通るためには赤ちゃんの脳が小さいうちに出産するしかない、という話はよく知られたこと。
一方で、他の動物に比して肥大化した脳は、優れた学習能力へとつながっている。
脆弱に産まれてくることと、学習能力の高さがトレードオフの関係にある、ということだ。

脳の肥大化により脆弱なまま産まれる、脆弱故に、親からのサポートを必要とする。
しかしそのサポートは、必ずしも肥大化した脳の有効活用につながるわけではない。
それこそ、それは親の在り方次第なわけだ。


脆弱に産まれてくるが故に抱っこを必要とし、愛情を示すことも、寄り添ってさまざまな刺激を与えることもきっと必要なことだ。そのことは脳の発達に間違いなく効果がある。

他方ネントレは、赤ちゃんの脳の発達にも効果的といわれる。長く眠る、深く眠るようになることは、長期的にみても、脳の発達に重要だ。


どちらをとるか。

「我が子を思って」が根幹にあることがやはり何より大事なのは間違いない。


ただ、親が自分たちを守りたいというか、癒したい気持ちも(本能的かつ無意識に)でてくるのだ。
抱っこしたい欲はもちろん、もっと日常的で日々日々のことでも。
例えば我が子の大変な状況を目の当たりにしたとき、その原因や背景を理解したくなる。それは半分はきっと愛のもと、有効なソリューションを提供したいと強く願うから。

その背景のもう半分は、やはりどこかで親の自分のためだったりもするように思う。
自分が理解していることで、安心したいという欲求。
そのなかで時折り、自分たちが理解しやすいロジックで物事を理解しようとしてしまったり、圧倒的に偏った現実理解が生まれたりもしていく。
その意識が、例えば、温度や湿度の数字を見れば、これは不快で泣いてるのかな、と思える状況でも、寂しいんだ、と思って延々抱っこしてを続けることにつながったりもする(こういうことは大人一人ではきっと気づかないが、二人いるなかで、本人は気づかないが、ん?と思うことや、いやさっきと言ってること違うくない?みたいなことを互い気付けるのが面白い)。

言葉でのコミュニケーションができない中では、後から原因がなんだったかも正確には捉えることはできず、誤解のループ、あるいは疑心暗鬼による不安も強化していくこともあるだろう。


そう、究極的にはわからないのだ。
わからないから厄介だ。


でも一つ肝に命じておきたいのは、判断は現実を捉えて行うが、現実をどう捉えるかはバイアスにまみれてるし、その現実を受けて行う判断はもっとバイアスにまみれているということ。

ネントレに取り組んだ時間を振り返り自分がどこかで「すっとできている子もいるんだから我が子はきっともっとすっとできるのでは?」と思っていた自分がいたことに気づいた。
我が子のこと、可能性を大いに信じている。でもそれが相手への過度の信頼となり、しかもそれに無意識であったことに衝撃をうけて、反省した。
そんな無意識のバイアスのなかで、「やめる判断」が後手に回った可能性は大いにある。


しかし人間なんてそんなものなのだ。バイアスにまみれた意思決定しかできない、それが人間だ。

そんなときに自分に問うようにしたい。
これは我が子のための判断か、自分がほっとするための判断か(何対何くらいの割合か)。

自分のための判断に流れることだってある、それは悪いことではない、大人だって心を守りたい。
でもそれがごっちゃになって、そればかりにならないことが大事だ。
だからどちらのための判断か、自覚して先に進みたい。
そのことがバイアスに気づかせてくれるかもしれない。
冷静さをたもって、自分が捉えられる現実の限界に自覚的になって、判断を誤ることも覚悟して、その不完全さを受け入れて、子育てには取り組んでいくべきなのだろうと思う。

そのことが、もっとやろう、にきっとつながるし、我が子へと届く愛になっていくのだ。

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