教育社会学者の育休日記♯4 いつから父になるのか

子どもが産まれるということ、父になるということ。

わが子が産まれたら、必然的に、生物としては父になる。

これから妻と約1週間ぶりに再会し、明々後日、我が子と対面する。
子どもは生まれていて、地球上に我が子が存在している。
でもまだ顔も見てない、声も聞いていない。

そんな、ちょっと珍しい時間を過ごしながら、「いつから人は父になるのか」、ということがふと頭にうかぶ。

確実に我が子が存在していることを知りながらも、存在を自ら確認していない。

それでも、これまで目につかなかったような赤ちゃん用の洋服を売ってる店が目に入ってつい写真を撮ったり。
1日を過ごしながら、我が子はいまどう暮らしているだろうか、と思ったり。
家に我が子が帰ってくるときを思って、いつもより少し入念に掃除するようになったり。
これまではそう気にならなかった家の外でバスケットボールを地面に叩きつけるドリブル音を聞きながら、「あれ?こんななかで寝れるのかな?」と思ったり。
あるいは、家にずっとあった育児に関する本の内容の自分に入ってくる深さが全然違ったり。
間違いなく、4月27日までとは全くことなる世界の見え方がはじまっている。
いろんな変化がすでに自分に起きている。
子どもやら育児に関連することはもちろん、それ以外の、単なる自分という存在においても、変化を感じる。
天気がいい日に気持ちよく感じる感覚も、雨の日に、少し重たく感じる感覚も、なんとなく、これまで以上に繊細で、感覚の振れ幅が大きなかってるきがする。

これはおそらく、生物としてというよりも、社会的な生き物として、人間として、父に成っていく営みを少しだけど丁寧にさせてもらっている時期なのだ、と気づいた。
自分に起きる変化を、一つ一つ味わって。
あれ?前まではどんなだったっけ?とか考えながら、暮らす。


そして、これから母となった妻と会い、またそこからも変化を感じていくのだろう。夫婦は夫婦でありながら、子どもがいる家庭としての暮らし、会話、考えることや、気になること、意識が向くことも変わっていく。

そして、我が子に出会いさらに大きな変化がきっと自分のなかに起きていく。

変化を感じる、「これまでとは違う」を感じる。
転じて、
これまではどうだったのか?
そもそもどうだったのか?
がはじまる。

そのなかで、自分とは何か?日頃何が気になり、何を意識して暮らし、そして自分は何を大切にして生きている存在なのか、という哲学的な問いが頭にうかぶ。

父になる営みは、変化の営み。
変化の営みは、「自分とは何者か?」という深く本質的探求への入り口。

妻が母になり、自分が父になる。
役割としての父をこえて、自分が思う父像の探求が自分という存在を問う探求へとつながる。

こんなにも素敵な問いをくれる我が子に、心より感謝。

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