俄雨を待ち侘びていた僕へ
雨は嫌いだ。
今となっては。
自転車で東西南北を駆け抜けるライフスタイルなもので、雨は死活問題になりうる。
「ふざけんなクソ雨が!!」と叫びながらなにわ筋を爆漕ぎする三十路過ぎた男がいたら、それは大概僕である。
夏になると、ここ数年はゲリラ豪雨が毎日のようにやってくるから気が滅入る。リッチだからタクシーめちゃくちゃ使っちゃう。
俄雨のことをゲリラ豪雨と言うようになったのはいつからだろう。
最近の雨量は、俄雨と呼べるそれでは無いのかもしれないけど、僕自身、俄雨というワードを口に出すことはなくなってしまった。
驟雨、五月雨、時雨、夕立…雨についての日本の表現は結構好きで、まあかっこいいなっていう単純なところからなんだけど、こういう言葉はこれからも使っていきたいなと思う。かっこいいから。
そしてゲリラ豪雨は俄雨ってよりも驟雨なのかもしれないと思ったりもするけど、それはそれでよし。
表現としては好きだが、雨自体は好きじゃない、むしろ嫌いな僕だけども、小学生の頃は、実はちょっと好きだった。
大きな理由のひとつは、当時入ってた少年野球の練習が休みになるから。
授業、窓の外に雨粒が見えようものなら、降り続いてくれ、と縋るような目で空を見つめていたものだ。だいたいそういう時は得てして止んでしまうけど。
でもそれよりも、一日だけ、本当に雨が大好きになった日があった。
放課後、ちょっと学校を出るのが遅くなって、独りで下駄箱に向かっていたのだけど、既に雨の特有の匂いが鼻についた。
結構などしゃ降り。俄雨。
小学生が皆持っていた、あの黄色い傘を、僕はその日持ってきていなかった。
呆然と立ち尽くす僕。家まで歩いて15分ぐらいだったけど、この雨じゃあ傘なしで歩く気にもならない。
さて困った。
背後で簀子を踏む音が聞こえた。
当時僕が好きだった女の子が立っていた。
今思い返しても、この子は本当に大人びていた。今の僕より大人だったと思う。
だから僕はこの子と喋る時は、全力で背伸びしていた。もう浮いてたと思う。
立ち尽くす僕に向かって、
「傘、無いの?」
と彼女は問う。
「無い」
なるたけぶっきらぼうに聞こえるように返す僕。
でも彼女の手にも、傘が握られてなかったのを、僕は直ぐに確認した。
止むまで待つと僕が伝えると、
「ふーん」
とだけ言って、僕の2mほど横で、その子も雨が止むのを待ち始めた。
これがソーシャルディスタンスの生まれた瞬間だと言われている。
隣の傘立てに、忘れ物の傘が置いてあることを、多分2人とも分かっていたと思うけど、ただ何も言わずに、雨が止むのを待った。
何も言わなかったけど、僕は心臓の音を聞こえないように隠すのに必死だったし、今みたいにスマホもないので、ただただ曇天の機嫌を伺うように覗き込みつつ、チラリと隣人の顔を盗み見たりして落ち着きなく過ごした。
特に何を喋った記憶もないけど、雨、一生止むな、と思った。朝まで降れば、朝までいられるのでは、と、ちょっと本気で思った。
結局、そんなことはなく、20分程度で雨も小雨になり、僕らが歩き出す頃にはもう雨は気にならなくなった。
2人で同じ道を黙って歩いた。
バイバイしないといけない交差点に来ても、2人とも何も言わずに別れた。
今同じことやったら、鍵付きアカウントでボロクソに書かれそうな案件である。
でも、そこから家まで、スキップして帰りたくなるくらい、雨に感謝した。向こう1ヶ月くらい、雨でもいいなと思った。
今はもう、雨も嫌だし、その子と付き合ったりすることもなく今に至るけど、雨の匂いを嗅ぐとたまに、あの下駄箱の前のことを思い出す。
傘、無かったらコンビニで買ったり、パクッたりする人達、無い方がいいこともあるぞ、たまに。
まあでも多分3割くらいは思い出補正。
少年の日の思い出シリーズその2、おわり。