「好き」の言語化
「言語化」
これによって物事を理解することが容易になり、論理的な思考及び行動につながる。と、僕は捉えている。完全とは言えないが積極的に取り入れているつもりだ。このnoteを書き始めたのも言語化をより身近にしようとしたのがきっかけだ。自分の脳のかけらを文字という形に落とし込むその結果、良い影響が僕の生活の至る所に現れてきている。今となっては過去の話ではあるが。しかし、あるものについて僕は言語化することができない。というよりも、無意識的にそれから逃げているのかもしれない。なぜなら、論理的に物事を分解し可視化するという過程において、そこに感情の入る余地は一切ないからだ。僕はここに言語化の弊害を感じている。
例えば、自分の恋人や意中の相手に関する質問をされたとする。
「〇〇のどこが好きなの?」
対して、
「〇〇の〜~なところかな。」
と、答える人がいるとするならば、僕はその人の気持ちを理解することは難しいだろう。(決して否定しているわけではない。むしろ問題があるのは僕の曲がった性格の方だ。)人間の感情,とりわけ好き(love)というものに関しては、脳の理解が追いつかない範囲に存在するものではないだろうか。
ふとしたとき、愛おしいなぁとぼんやり思えたりすること。なんとなく好きだ、という気持ちがしっかりと心にあることが大事なのではないかと思っている。
自分の好きだという気持ちを大切にしたいのだが、
2021/11/07 落合壮亮