わたしの"ごきげん"を考えたら、わがまま娘が爆誕した
「自分のごきげんは自分でとれるようになろう」という言葉を、よく見聞きするようになった。
そのおかげで、「私のごきげんは、どこから?」と某ベンザブロックみたいに考えることも増えて、結果的にごきげんな自分でいられる時間が増えてきている。
そんな私がごきげんを損ねるのは、例えばお腹が空いているとき。寝不足のとき。誰かに何か痛いところを突かれたなと思ったとき。何かイヤなことを引きずって切り替えられずにぐるぐるしているとき。自分の頭の中に言葉の渦が溜まって、出せないまま消えていきそうなとき。行き詰まりを感じるとき。
そのときどきの損ない具合によっては「今回の波は強敵だぞ」みたいなときもあるけど、こうやって書き出してみると、「なーんだ、その程度?」みたいな気持ちにもなる。だって、見てみてよ。ここに書き出せているものって、大体解決策がわかる気がしない?
お腹が空いているなら、食べればいい。
寝不足なら、お昼寝か早寝をすればいい。
痛いところ、切り替えられないところは、否定も抑圧もしなければいい。
言葉の渦が溜まるなら、書き出せばいいし。
行き詰まるなら、新しいことをすればいい。
いやまあね、書くのは簡単よ。だけど、現実にはそう上手くいかないことも沢山ある。
忙しくて食べられない、眠れない、書けない、始められないとか。
自分のネガティブな面は抑圧しておかないと制御できなくなっちゃいそうとか。
でも、そういう行き来を何万回と繰り返して最近気づいたのは、どうやら私のごきげんの根っこにあるのは、「今、自分が興味関心があることをきちんとキャッチして、そこに向かえているかどうか」みたいなことらしかった。
食べたいときに食べるし、寝たいときに寝るし、痛いなら痛いし、引きずりたいときは引きずりたい、始めたいときに始めたい。
うん。ただのわがまま娘が爆誕してる。
でも、たぶん正解だ。今のところの私のごきげん分析としては大正解。
とはいえ、今自分がしたいことを全て認識してあげて、全て行動にうつしてあげるのは結構大変なこと。
しかも、それは社会的に息がしやすい生き物なのかどうか?でいうと、正直わからない。むしろままならなくなることのほうが多いと思う。
でも自分的に息がしやすい、ごきげんでいられるのは、わがまま娘の願いを叶えてあげられているときであることは疑いようがない。
・・・だったら、私はわがままのままで生きていきたい。
大人げなくても喜怒哀楽は大きく深く感じたらいいし、考えたいことは好きなだけ考えたらいいし、物分かりのいいやつになろうとしなくていい。
もっと純粋で、無邪気で、あんまり頭もよくない、そのままのものとして存在していたい。
いびつなことかもしれないけど、いびつさは、きっと誰にだってある。
そして、それが強みや愛嬌になることも大いにある。それなら、私が少しくらいはみ出したって許してもらえるような気がするし、そのくらいには世界のことを信じてみてもいいんじゃないかなって最近思っている。
🍨
今日は2ヶ月ぶりにnote記事を書こうかなという気持ちになったので、"ごきげん"をテーマに、私がごきげんになることリストを紹介する記事を書こうと思って書き出したのに、なんかぜんぜん違う話になっちゃった。
本当は「サーティーワンのポッピングシャワーを食べる」とか「二度寝する」とか、もっとかわいいことが書きたかったんだけど、まあいいや。書けてよかったわあ。おやすみなさい。