twitterアーカイブ+:メディア効果論における小情報近似と大情報近似
スマホ内画像監視アプリに寄せて
2019年7月、折しも参院選の公示日直前、「子どものスマホに保存されたいかがわしい画像を検出、即座に親に通知するアプリ」の話題がタイムラインを一瞬よぎり、去った。
子供のプライバシーと尊厳を一挙に粉砕する恐ろしいアプリだな……。これこそ子供の人権侵害。
— 柴田英里 (@erishibata) June 28, 2019
/子どものスマホに保存されたいかがわしい画像を検出、即座に親に通知するアプリ「Gallery Guardian」 - GIGAZINE https://t.co/tKODLACxST
表現を製作したり観賞したりする自由の中でも、未成年者のそれは成人の権利に比べて劣後されやすい。「子供ならある程度仕方ないか」と多くの人が考えるのだ。操刷法師は違った。
私が真に惨たらしく焼き滅ぼしたいと思っているのはまさにこのような思考で、表現の自由なんぞはそのために必要な大前提に過ぎないわけだが、現に生まれてしまったものに対処するには、AIの学習を汚染し使い物にならなくする(webからクローリングしているのなら)のが手っ取り早いのだろうか。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) June 30, 2019
……後から考えれば、学習を汚染するのも妙手とは言い難い。仮に今の時代に集められるネットの悪ノリを総動員して、家族写真や学校の板書の写真などを「いかがわしい画像」と判定するように仕向けたとしても、その広すぎる網で「真の『いかがわしい画像』」を止めることができるなら不便さを押して使う親は多いのではないか、という懸念を私は拭い去ることができない。それに、私の関心はアプリを無力化することにあるのではない。このようなアプリの出現する背景にある、「子供が性的コンテンツに触れることを抑制すべきである」という社会通念を無力化することにあるのだ。
小情報近似と大情報近似
「子供としては、そこで抜け穴を探してこっそりやるのが楽しい」などと、寝ぼけたことを言ってくれるなよ。そんな小さな抜け穴から漏れてくる僅かな情報に後生大事にしがみついているから、旧時代においては性表現によって認知が歪むという言説が一定の説得力を持っていたのだ。堂々と自由を求めよ。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) June 30, 2019
私は、性表現・暴力表現は多様に自由に流通している限り、人を犯罪へと駆り立てるどころか、むしろ様々な欲望を自覚・言語化して理性のもとで統御する術を与えると考えている。その効果は子供にとっても同じ、否、自分や他人の欲望と向き合う術を最も必要とする第二次性徴期の子供が読んでこそ、表現は真価を発揮する。逆に、読ませないように抑圧することは、子供が目にした数少ない表現に固執し、あるいは社会通念によって許されている異性間性器挿入に固執し、自分の欲望を見定められず、本人にも他人にも本意でない短絡的な加害行為に走る危険を増す。このことの詳細については別稿を参照されたい。
このように性表現の積極的な価値を主張する言説は、自由な表現の環境を守ろうとする陣営からもなかなか聞かれなかった。なぜか。理由の一つは、ここで私が前提としている「性表現が多様に自由に流通する環境」が、インターネットの発明によってようやく実現に近づいた、人類にとってほとんど想定外の状況だったからだと私は考えている。逆に言えば、伝統的に語られていたメディアの効果に関する様々な主張は、インターネットのない環境、情報の量と種類が著しく制限された環境を前提として考え出された特殊な主張に過ぎない。
そのインターネット以前の世界で成り立っていた法則を、私は「小情報近似」と呼んでいる。
「子供が真似する」「認知が歪む」「差別の再生産」「欲望=レイプ!」、これらは全て、インターネット以前の時代の干からびた神話。Excelを信用できずに電卓を使う老人と同じ迷妄。諸君らの知っている時代が、所詮は「小情報近似」の古典的な世界だったと気付くがいい。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) June 30, 2019
対して、多様な表現が自由に流通し、読者がそれらを自由に手に取れる環境を前提としたメディア効果論を、「大情報近似」と呼ぶ。
まず、諸君がしたり顔で語っているポルノ悪影響論が、限定的な状況にしか適用できない「小情報近似」であると気付くところからだ。それは文明社会を記述できる理論ではない。インターネットと表現の自由がもたらす「大情報近似」の領域では、ポルノを多く読むことが倫理性を持つようになる。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) March 7, 2021
小情報近似と大情報近似は、流通する情報の量と幅によって分かれたものではあるが、その違いは質的なものだ。情報を、ただ真似するためのものではなく、多くを見比べて自分の心の癖を知るためのものとして捉える。
インターネットという「量」の技術、発信人口の増加による情報の多様化、そして表現の規制や抑圧を防いで情報の幅に穴を作らないこと。これらが揃うことで、大情報近似が予言する「性表現・暴力表現によって欲望を認知し加害を思い止まる」という効果が期待できる。日本において揃っていないのは最後の一つだけだ。そして規制や抑圧を防ぐためには、自由な環境では大情報近似が適用できることを主張していくことが重要だと私は考えている。
呼び名の由来
小情報近似と大情報近似は、物理学の「低温近似」「高温近似」という計算方法から連想して名付けたものだ。結晶の比熱などの多くの物理現象は、温度の違いによって質的に異なる挙動を示す。高温では系を構成するそれぞれの粒子が熱によって激しく振動しているが、低温ではそれが落ち着き、電子など熱伝導に関与する一部の粒子にエネルギーが供給されづらくなるからだ。よって、想定している温度によっては、計算に際して数式の中の一部の項を無視することができる。
物理学の比喩をもう少し続けさせてほしい。原子核の周りに電磁気力によって束縛されている電子は、量子としての性質によって離散的なエネルギーしか持つことができない(いくつかの特定の回転半径でしか原子核の周りを回ることができない、と考えればイメージは掴めるだろう)。原子が集まって固体になっても基本的な状況は同じで、ただし取れるエネルギー値の選択肢が細分化されて増える。これらのエネルギー値の選択肢を「エネルギー準位」と呼ぶ。各選択肢のエネルギーの差に相当するエネルギーを供給されるか、逆に放出するかすれば、電子はあるエネルギー準位から別のエネルギー準位へと移ることができる。同時に、原子核の周りを回る軌道も変わる。
高温では、原子核も電子も激しく振動しているので、電子は周囲の粒子からエネルギーを得ることも、逆に周囲の粒子にエネルギーを与えることも容易にできる。従って、それぞれの電子は多くのエネルギー準位に自由に移ることができる。重要なのは、高温では単に高いエネルギー準位(≒回転半径の大きい軌道や複雑な軌道)に集まるのではなく、取りうるエネルギーの選択肢が増えるということだ。一方、低温ではそれぞれの粒子の熱運動がおとなしく、粒子間でのエネルギーの受け渡しも起こりづらいため、電子は低いエネルギー準位に留まる。
![](https://assets.st-note.com/img/1674313326924-PevOZQAfeK.png?width=1200)
私は情報環境と人間個人の意思決定についてこれと同じイメージを持っている。情報の幅が広い環境では、人間は一つの発想に固執することなく、様々な選択肢や可能性を検討することができる。特に自分自身の欲望を見定める時のような、答えを出すことを急かされていない場合にそれが顕著になる。欲望についての多くの情報(ポルノグラフィのこと)を供給されることで、人間が持ちうる無数の欲望を自分の心と照らし合わせ、どれが自分に最も近いか、自分の欲望をどう理解すべきかを探ることができる。それは、伝統的な異性間性交を相対化することでもある。逆に情報の幅が乏しければ、異性間性交のような画一的な欲望に自分を紐付けて、他の欲望が潜んでいないかを検討することができない。
性表現の多様さ
もし諸君に、オートガイネフィリアのフの字も知らないような一般人と腰を据えて性教育の話をする機会があれば、是非とも「エロ本には何が書かれているのか」とでも銘打って秘蔵の同人誌の山を見せてあげてほしい。その描き・読みの驚くべき多様性は、真面目な性教育の議論の前提知識となるべきものだ。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) March 7, 2021
人間の欲望についての情報の量と多様さにかけて、現代の日本のポルノメディア環境は人類史の中でも類を見ない豊かさを誇っている。特にイラストや漫画・アニメ・ゲームによるフィクションのポルノは、現実では実行不可能な欲望(だが人間はそのような欲望をも持ちうる!)を広く網羅している。似たような行為でも描き手の嗜癖を反映した細部の違いがあり、さらに読み手の側にも様々な読み取り方がある。これらに自由に触れられる環境に人間を置くことで、それぞれの個人は自分の欲望を再検討し、より自分の心身の在り様を反映した欲望を自らのアイデンティティとして掲げることができるようになる。
このことは、実際に性表現の環境に触れてみなければ分からない。多くの人がそれに触れて理解するようになるためには、制度による規制をなくし、受け手の忌避感をなくし、描き手・売り手が処罰や攻撃に対して持つ警戒心をなくさなければならない。しかし、いきなり「多くの人」を目指さなければ、個人の私的な付き合いを通して理解者を増やしていくことはできるかもしれない。もしもあなたが信頼関係を築いている人と話している時に、性や欲望の話題が出たならば、もしもその場の流れが許すならば、「エロ本には何が描かれているか」ということを、描きと読みの多様性という側面から語ってあげてほしい。
まとめ
まとめよう。通信技術によって情報が多量・多様に流通するようになる前と後で、情報環境が人間に及ぼす影響は質的に異なる。旧来の「小情報近似」の世界では、人間は少なく偏った情報に依存する他なく、それゆえ「ポルノグラフィを読むと真似して犯罪に走る」という発想が説得力を持っていた。対して現代の「大情報近似」の世界では、多くの幅広い表現や作品に照らして自分の欲望を見定めることができるため、ポルノグラフィに触れることは欲望を理性のもとに統御する訓練となる。
性欲は、巨大な力を生み出すという点でも構成員を更新するという点でも秩序にとっての脅威ではあるが、社会の存続のためには管理下に置いて維持せざるを得なかった。しかし現代以前は、その真の性質が理解されていなかった。技術的制約により、情報と人間との相互作用を十分に実験できなかったからだ。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) September 23, 2021
ネット以前のこの時代の、性欲に関する認識枠組みを「小情報近似」と私は呼ぶ。そこでは全ての欲望が現実の人間相手の性器挿入行為と繁殖へと回収されて語られる。しかし、「大情報近似」の状況においては、人間の欲望にそれまで知られていなかった準位(state)があることが明らかになる。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) September 23, 2021
セックス欲のタブー化と管理には人間のハードウェア仕様に基づく一定の合理的な理由があるだろう。しかし、その理由が全てフィクションの性表現にも適用できるという仮定は、小情報近似の産物だ。僅かな数・僅かな種類の性表現しかない状況と、この21世紀以降の日本とでは、性表現の影響は全く異なる。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) September 23, 2021
追記:子供を監視することについて
私は、子供と一緒に欲望の処し方を考えるという観点からは、子供が何を見ているのかを親は全て知ることが望ましいと考えている。だが、それは言うまでもなく現実的ではない。プライバシーの侵害であり、かつ知り得た情報を適切な助言と適度な放任へと落とし込める親は皆無と言ってよいから。
— 操刷法師 (@sosatsuhoshi) June 30, 2019
これは、神戸児童連続殺傷事件の加害少年の両親による手記を念頭に置いた発言である[1]。子供のプライバシーは重要だが、一方で子供の内的世界をあまりに把握していないのも考え物だ。
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[1] 「少年A」の父母、『「少年A」 この子を生んで…… 父と母 悔恨の手記』、文藝春秋、2001
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