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流行語大賞「ふてほど」に見る、オールドメディアの世論形成ファンタジー
毎年発表される「新語・流行語大賞」は、その年の社会を象徴する言葉を選び出し、世相を映し出すものとされています。しかし、今年の大賞に選ばれた「ふてほど(不適切にもほどがある)」という略語に対し、多くの人々が首をかしげました。この言葉は、ある日本のドラマのキャッチコピー「不適切にもほどがある」が由来とされますが、略語としての「ふてほど」が実際に広く使われているとは言いがたいからです。
なぜこんな言葉が大賞に選ばれたのでしょうか?ここには、オールドメディアがいまだに自分たちが世論形成の中心だと錯覚している構造的な問題が見え隠れしています。
「ふてほど」とは本当に流行したのか?
「ふてほど」は、人気ドラマのキャッチコピーを略した形で、制作サイドが仕掛けた「流行語」と言えます。しかし、TwitterやInstagramなどのSNSを見ても、この略語が自然発生的に使われていた形跡はほとんどありません。むしろ、「そんな言葉知らない」「どこで流行ったの?」という反応が大多数でした。
流行語とは、本来、人々の間で自然に生まれ、広がり、浸透していくものです。しかし、「ふてほど」は明らかにその過程を経ていません。これは「流行語大賞」が、世論を反映するのではなく、むしろ「これが流行っている」と人々に思わせるための「押し付け」であることを象徴しています。
オールドメディアの周回遅れ感
1. 世論形成者としての自意識のズレ
オールドメディアは、かつて新聞やテレビが情報の中心だった時代の価値観にいまだ囚われています。「自分たちが選ぶ言葉こそが、社会を象徴する流行だ」という考え方は、SNS時代の価値観と大きくズレています。現代では、流行はユーザー間で生まれ、広がり、自然淘汰されるプロセスを経て定着します。しかし、メディアが作為的に選んだ「ふてほど」のような言葉には、そうしたプロセスが感じられません。
2. 誰も使っていない略語の「発明」
今回の「ふてほど」は、そもそも実際に使われていない略語を選ぶという致命的なミスがありました。これにより、オールドメディアの感覚のズレが露呈しました。彼らは、自分たちが提示すれば言葉が広がると信じているのかもしれません。しかし、SNS時代のユーザーは、メディアが一方的に押し付けるものを受け入れるほど受動的ではありません。
3. 流行語大賞の形式そのものの限界
流行語大賞の選定プロセスは、いまだに会議形式で「審査委員」が決めるという古典的なものです。SNSや検索エンジンデータを活用して選ぶこともできますが、そのようなデータドリブンな方法が取り入れられる気配はありません。この形式自体が、現代の流行のスピードや多様性に対応しきれていない証拠です。
世論形成はもはや「双方向性」の時代
SNSが広く普及した現代では、情報や流行の生成・拡散は、メディア主導ではなく、双方向的かつ分散的に行われます。人々が言葉やトレンドを選び、共有し、淘汰していく中で、オールドメディアがそのプロセスを無視して「これが流行語です」と一方的に提示するやり方は、時代錯誤と言えるでしょう。
その結果、「ふてほど」のように、実際には誰も使っていない言葉が「流行語大賞」に選ばれるという奇妙な事態が発生します。このようなギャップは、オールドメディアが世論の中心であるという過去の幻想をいまだに捨てきれないことを象徴しています。
「ふてほど」が示す未来への示唆
「ふてほど」の選出は、オールドメディアが変わるべきタイミングに来ていることを教えてくれます。これからの時代、流行を真に反映するためには、次のようなアプローチが求められるでしょう:
1. データ主導の選定プロセスの採用
SNSや検索エンジンのトレンドデータを活用し、実際に使われている言葉を基に流行語を選定することが必要です。
2. 若年層やSNSユーザーとの対話
審査委員会だけで決めるのではなく、SNS上の意見やアンケートを取り入れ、多様な視点を反映させることが重要です。
3. 流行語の発表頻度を高める
年に1回ではなく、四半期ごと、あるいは月ごとに流行語を発表し、よりスピーディーに対応することが求められます。
結論:流行語大賞の未来に必要なのは「共感」
「ふてほど」が選ばれた背景には、オールドメディアがいまだに「世論を作れる」と信じている旧時代的な姿勢がありました。しかし、現代の世論はもっと動的で、分散的で、ユーザー主導です。オールドメディアが変わらない限り、流行語大賞そのものの価値も失われていくでしょう。
今回の「ふてほど」が教えてくれたのは、「世論を作る」のではなく、「世論に共感し、それを広げる」姿勢が求められているということなのです。