私的キリスト教観
自分はキリスト教の信者ではない
予め表明しておきます。ぼくはいろんなとこを跨いじゃってるキメラなので、キリスト教の純然たる信者ではありません。教会に行かないし聖書もちらっとしか読んだことがありません。
では、そんな自分が何を言いたいのかというと「俗人はもちろんのこと、キリスト教徒も『みだりに口にすべきではない四文字』を理解していない」と主張します。よくある自称イロイロのアレみたいで我ながらこんなもん誰が信じるんだと思いますが。
ある天使(別に高名ではない)曰く「十戒だけでいい。教会で聖書オタクになって天狗になって聖書で人をブン殴るようになるぐらいなら、教会も聖書も捨てて、十戒だけ抱えて人を手当たり次第教導しろ」挙句にオカルトかと言われるのも重々承知ですが、どっかの天使がそう言ってたんです。
四文字とはどういう存在か?
自分は四文字を信仰してません。念のため。四文字がどんな存在かというと、「完全」です。人は四文字に、いわゆる神聖さだけを期待しますが、そもそも悪魔だって四文字が生み出したものであり、「それを知らなかった」なんてことあるわけがない。あると思っているなら、あなたは四文字の完全性を正面から否定したことになる。また、「ルシファーの反逆」や「人間の堕天」に関しても同じ。
実は、この反逆話は「反抗期」に関するものです。反抗期に起きる、どうにも抗い難い親への抵抗、自分への過信、葛藤、闘い、懲罰、和解。この一連のプロセスは、実は信仰のプロセスでもある。
信仰とは何か?
神道に関して言うなら、信仰とはほぼ無条件の世界と神さまの存在を確信することなので、ほとんど妄信に近いと言えますが、四文字に関しては別です。四文字に関する信仰は、「あなたは元来の本性を以て、そこに生じる全てを以て信仰に至る」という何とも頓智じみたはなしです。
この元来の本性を以て、というのは、「人間てきれいな存在じゃないやん?」てことです。実は、四文字を妄信する人は信仰の入り口で突っ立っている人です。「あなたは経験せず、判断することなしに、一体何を知り得るのか?」ということです。
元来の本性を以て、というのは、「人間て純粋じゃないから疑うし迷うし邪推するし、そういう業をしょってるんだから、いっそそれを使ってみなよ」ってことです。科学はまだ、神の領域にアプローチできていません。人の言説によって信仰を否定されたと考える人は、この事実を軽率に無視しています。また、四文字の威光は人に否定できません。できると思っている人は四文字を矮小化しているか、あるいは人間を過信しているのです。
つまり、四文字を貶めることは人類にはできないが、信仰が汚れれば、最終的には人間同士の問題に発展するんだよ、という話です。聖書に書いてあることは、時代の変遷や発展や、人間そのものの問題を含むので、さまざまに解釈できる(だから定義を絶対視する科学は否定する)し、そこから得るものも幾らかあるでしょう。とはいえ、聖書は原理ではありません。
念のためもっかい言いますが、ぼくはキリスト教の信者じゃないし四文字を信仰してないし聖書を覚えてない程度にしか読んだことがありません。よって、ぼくの主張を否定するのも信じないのも当然自由です。が、控えめに言っても四文字を信仰している人たちは、驚くべき傲慢さで四文字を矮小化したがってるように見えるんですよね。なんででしょう?
四文字は「完全無欠の存在」ですよ。少なくとも設定上はそうなんです。完全な善であると同時に完全な悪であり、それはこの世界の不完全性の中には収まり切れないのです。存在の幅が桁外れなので人類には理解が追い付かないかもしれませんが、そういうもんです。結果的に一面だけ信じたがる人が多いわけです。昔の抵抗不能な凶事に対する盾としての、人類の希望する神性がそういう存在だったわけです。
四文字が見ている
四文字は、あなたの中の全ての現象に存在している。それは、四文字が想像した世界がそうなのか、創造した存在がそうなのかは、自分には知覚できない。いずれであれ、あなたが四文字を信仰しているのなら、そのことは知っておくべきだと思います。
問題は、四文字の存在の幅がありすぎて、人間と隣接できるのはその片鱗、つま先の更に先のテクスチャとして認識するのも難しい部分だけということ。よって、大部分は天使に任されている。ぼくは割と天使が大嫌いですが、一部はなぜか天使を冗談みたいにもてはやしますね。賭けてもいいですが、天使なんて知ったら大体の人間は秒で嫌いになりますよ。
スピオカフラワーガーデンの住民であるなら、嫌いにならない人がほぼいないと思います。天使の殆どはそういう世界の住人の思ってる優しい理想的な存在なんかじゃなく、人間を父のつくった出来損ないとして見下しているのが普通で、存在の根幹に神聖系の何かが関わってない限り、彼らの勝手な言葉を聞いていたらとりあえずゴミ箱でもぶん投げてやりたくなるのが普通です。
さておき、天使は「四文字の意志を代行している(一応」存在であり、別に人類の味方ではないです。「四文字が人を愛している」から天使はその役目を負っているのであって、天使の自発的意思で人を愛しているわけではない。むしろ、天使からすれば、不出来を絵に描いたような存在をつくって愛している父がおかしくなったようにしか見えない。それは「天界に対する反逆の一因となった」わけで、天使がどれほど人類を不愉快と思っているかは察せられると思う。
ところが、実は天使には欠点にしか見えない「人の決定的な欠点」こそ四文字が人を愛する理由であり、「ルシファーの反逆を喜んだ」理由でもある。四文字はルシファーの反逆を予見していた。当然、これを天使たちに迎撃させているが、四文字は、「天使を不憫に思い、このままでいいのだろうか?」と感じていた。
しかし、天使を存在の理想形としてつくってしまった以上、それはその規定に縛られる他ない。ここで、天使という存在をある意味引っ掻き回す格好で、状況を変更する。約束された安息の地に、不完全さを放り込んだのだ。そもそも「なぜ、天界に明示的なルールが必要なのか?」
これは不自然極まりないことである。ルールなんて不自然なものを課すのであれば、存在自体をいちから見直して消してしまうか、存在の根幹に禁止を組み込んで作り変えてしまえば済んだ話だ。何故なら、四文字は創造主だから。
同じことは、人間に対しても言える。天使の反逆が「失敗」だったのであれば、人間をつくるにあたって改良すれば良かった。ところが、それを行った痕跡はどこにもない。失敗作を失敗だと認めるなら、それは四文字自ら主張する完全性への正式な否定になる。
これはキリスト教というものの根幹に関わる話である。しかし、人間を失敗だとした文書は何処にもない。不完全で間違いだらけであることは随所に記述されるが、失敗したとは書いてない。
こうした「四文字の不完全さ」は、人間のつくった物語としては自然に見えるし、多くの人も(キリスト教徒すらも)そう思っている。ぼくも、ある時期はアンチ宗教だったため、実際に同じことを考え、信じ込んでいた。
ルールなんてものをわざわざ課してしまうと、少なくとも理屈としては次のことが成り立つ。「君たちは罪を犯すこともできる」「君たちにはそうする自由がある」「にもかかわらず、君たちは、わたしの課したルールに盲従している」
恐らく、最も四文字に近かった男は、こうした一見矛盾した状況に気づいていた。「なぜ父はこんな挑発的な真似をするのか?自らつくった我々を賛美しながら、嘲るような矛盾した態度をとるのか?疑問を抱いてしまったら、そのときから父の意思の下にいる天使は動揺せざるを得ないではないか!」
最も神に近い男は、己だけは何があっても神の意志を曲げないと思っていたに違いない。絶対秩序、永遠の正しさ、永遠の幸福。約束されていると信じていた王国の真理は、崇敬する最愛の父によって否定されたのだ。
王国と絶対真理の崩壊
四文字を信仰するなら、この出来事を正面から考えてみる必要があるのではないだろうか。四文字は、「自らに反逆できる存在をわざわざつくった」と考えないと辻褄が合わない。人間が失敗作だとは書いていない。当然、天使が失敗作だったともどこにも書いていない。
失敗じゃないのなら、その意図は明白ではないだろうか?四文字は、天使や人間の反逆を嘆いているが、ただの失敗作であるなら作り直すか消し去ってしまえばいい。当たり前ではあるが、四文字にはその権能もあるのだから、そうしたければそうしたはずである。まして、悪魔の存在だって自らの意思で容認している。
もちろん、聖書が様々な「現実の」エピソードの寄せ集めであり、聖書はその「印象版」だと自分も断定的に考えていたことはある。一部の人々は「人間とその技は全能である」かのように考えている。「傲慢」である。人間という存在は、まだ「自らの意思を見つけ出すことに成功していない」
人間は様々な観点から真理に至らず、いまだ混乱と問題を累積し続けている。全面的に信じているわけでもないが、天使が言うに「人間は自ら何も作り出せないのに、そう誤認している」そうだ。なるほど、実はそれが科学だ。
この理解に至るには、地球は人間がつくったのではなく、地球が人間を生んだ、という理解から出発しなければならない。例えば工業製品や薬品すらも自然由来である。PCや戦闘機や冷蔵庫を自然製品と呼んだら誰もが笑い出すに違いないが、理解がないから納得より先に違和感か先入観がくる。そして、それを疑いもしない。
人間が加工し、組み立てた製品群も、結局は自然由来である。金属の精錬技術もかなりのものになったが、金属も結局は人間がつくったものではない。ほぼ全面的に、工業製品ですら、単に「自然加工品」として括るべきものである。工業に多くの加工技術や人の手が加わったからと言って、自然由来の部材の数々を加工しただけ、と言うのが事実だからだ。
天使の言い分はもっと踏み込んだ、からかいと呆れを含んだものだったが、ここら辺でやめておこう。ここまでの内容で自分が既におかしいと思われているのは承知だが、これ以上踏み込むと自分の元々ない正気もいよいよ完全否定されることになってしまう。