保守カウンター

の最低な例としては「時代遅れ」だとか「本来必要のないムーブメントを生んだ」というものがある。言葉を便利に使いすぎて、それを使う意味を軽視し、完全に主観的な定義に置き換わっている例というのは稀ならずあるが、そういう例のひとつが時代遅れである。お節介ではあるが、「前近代的」という方が一応は賢く聞こえる。

時代遅れに対する反論

この言葉が繰り出される背景には、保守っぽい傾向に対するただの「不快感」や「抵抗感」がある。それは「感覚の寄せ集め」である。ただの感覚で、その具体性を問うことをせず、「そういうもの」が実効性を持つ不安や恐怖に抵抗している。事実ではなく。冷静に見えても非常に感情的な「ただの反応」なのである。

本来必要がない層や人物の関心を招いた

という意見を見かけた。これは聞き捨てならない。自分は保守や保守傾向に反対だまでは言っていい。批判もしていい。しかし、政治は「国民のもの」である。好き嫌いに関係なく、有権者は全て等しく政治というものについて、最低限理解し参加できるべきという大前提がある。保守や保守傾向に反対するなら、これは絶対に言うべきことではない。権利の例外や排他を認めるというのは、むしろ保守側の性格の強い主張である。これは反保守の主張と矛盾する。

具体性を以て批判すべき

リベラルや自称リベラルの人、大半がふわっとしていて具体性がないばかりか、実態のない話までしはじめ、最終的に自らの主張に矛盾することまで言い出し、それによって自分の嫌いなものを結局は排撃しようとする。それこそが、リベラルが矛盾していて信用ならないと思わせる理由である。リベラルがその主張に正当性を持たせるためには、リベラルが絶対にしてはならないことをしないという一貫性を自分自身が証明しなければならない。

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