諦めに気付くとき
基本的には諦めが悪い方だと思っていて、というよりはっきり、逸脱した領域ではないかと思っているのだけれど、たとえばそれは(あまり開き直って書きたいものでもないが)遅刻癖にもよく表れているように思う。「意識すら無いタイプの寝坊」をすることはほとんど無く、一度は問題ない時間に目覚めるものの、ただ限界まで「寝て回復する」をやり続けたい、回復を諦めたくないみたいな感触によって、結局実質的な寝坊をやらかすのである。そしてまた問題なく起きれたとしても、ぎりぎりまで荷物に不備がないか何度も確認したくなったりして、実際には時間内に準備は終わっていたというのに「準備に手間取って出発が遅れました」なんてメールを送ることになるのだ。また私は自転車での移動が多いため、多少出発が遅れてもまだ「急いで漕げばなんとかなる」とか思って、明らかな敗戦が確定するまで遅刻のメールを送らないとか、あるいはメールを送るその30秒さえも惜しんでペダルを漕ぎたくなったり、さっさと何もかも諦めれば良いものを、どうしてかその決断ができずに傷口を拡げていく。
と、このあたりの性質に共感頂けない場合、この言説は言い訳も甚だしく見えるだろうし、実際褒められたことではないので批判は受け入れねばならないし、どのような形にせよ遅刻したことは平謝りするべきである。ただその理由は怠惰のみならず、どちらかといえば過集中性質、ある意味で勤勉さのようなものにも化けうる性質と表裏一体である、くらいのことは申し上げておきたい。
ときに気付くのは、確定的な敗戦すらも、あまり重要ではないケースがあるということだ。たとえば……スポーツに対する知識がほとんど無いので適切に運用できるか怪しいのだけれど、バスケットボールでもするとしようか。制限時間内にどちらが点を多く取れるか競うものならなんでもよいのだが、この手の競技には、制限時間が残っていても実質的に敗戦が確定するラインがある。バスケットボールにおけるそれはどの程度だろう?残り一分で9点差とか…?1分以内にスリーポイントを三回決められれば同点、というのがどの程度の無理筋なのかは素人すぎてわからないのだが……残り1分で30点差ならば、さすがに不可能と言えるだろう。6秒に一回スリーポイントを決め続ければ追い付けるが、さすがに。
ただここにおいても、きっと諦めない人種がいる。それは実際には、諦めるという観点ですらない。端から度外視している――ある意味ではむしろ、最初から何かを諦めているのだと、そう言えるかもしれない。つまり残り時間と点数の関係を端から計算しない人種。暫定的な勝利を目指すのではなく、永久に改善に取り組み続けるタイプの人種である。
厄介なのは、取り組み続ける改善が、ある一瞬間的な勝敗判断においては、逆効果となるケースさえあること。そして、周囲をそれに巻き込むことである。他人から見れば明らかに常軌を逸した努力(のように見えるもの)をしているのにも関わらず、どこか勝敗に対して諦観的であったり、自身のそれにまっとうに努力と名付けてやらない人々というのは、そういった性質にどこかで自覚的なのではないかと予測する。なんなら、「負けたがり」さえもいるように思う。そこにもきっといくつもの理由があるが、そのうちのひとつとして――「勝たなければ」という観点こそが邪魔なのだと、だから負けられるならさっさと負けておきたいのだと、そう言い切る人がいても、おかしなことではないように思う。そのわりに彼らは、負けるために何かを怠ることをしないのだ。当然のことではある、なにせ彼らは、何物にも邪魔されずに何かをし続けるためにこそ、負けることを望んだのだから。
それはきっと上手さでも強さでもなく、楽しさでも悔しさでもなく、ただ追及として。まだそこに何かがあるような気がするから、と――これは私自身の体感を表すなら、という言語化であるけれども。あるいは、そこに何かが無いようなら他に望むべくことも無いから、とも言えるかもしれない。
というところで、諦めとはきっと、それもひとつの改善なのだと気付く。つまり諦めることによって、そうでないものへと取り組みをシフトすることができるということを意味するのだと思う。それでは、普通一般の人間が“次”へとシフトするところを、そこに留まる人間は、いったい何を、そこに見ているのか。
そしてそういう人間が、それでも次へとシフトするとき、そこにはどのような諦めの形があるのか。
個人的な体感で言うと、何かを諦めるときというのは、実際には諦めたという体感すら無くて……気が付けば通り過ぎていた、という感触がある。いままで一度たりとも、何かを諦めたことなどないと、そう言ってしまった方がまだしっくりくるのだ。諦めたことなどない、ただ……通り過ぎてしまった、と思う。そう思うものごとが日に日に増え、気付けば何を見るにつけても、自分がそこにとっくに出遅れたのではないかと、自分が何かを為すより以前にそこでは既に多くのものごとが流れ切って、ひとつの大事な時間はもう終わってしまった後なのではないかと、そう感じられるようになった。ただ、確信はないけれども、同時に思うことがある。私がそこを「通り過ぎてしまった」などと思うのは、私自身が「諦め」を為さなかったからではないだろうか?ひとつも諦めない人間は、時間の流れに従ってあらゆる現在に心残りを植え続け、当然未来へ行けば行くほど相対的に過去にそれを増やしていく。それが、「まだ本当は続いているはずの現在」を、見落とさせる。だって私はあのとき、あれを成し遂げなかったから。そしてそれをまだ諦めていないから。あらゆる現象が、「過去にまだ達成していないこと」を通じて見えるようになる。過去をまだやりきっていないと思うから、過去ばかり増えていく。ほんとうはあらゆることに現在が存在するのだ。一個も通過なんてしていない、ただ全てに現在なりの姿があるというだけで。ただ、何かを諦めなかったことで、それがどこか遠くに行ってしまったように感じる。諦めないことによって、諦めるしかないような遠くへと逃げられてしまう。どうしたことか、もちろん正解などわからない。ただ、ひとつだけ気付くことがある。私は、諦めなかったことで遠くに行ってしまったあらゆる風景が、その遠さが、どうしようもなく、好きだ