いろんな楽器に手を出している。力量は微妙。 楽器によって演奏感覚があまりにも異なり、愕然とする日々である。まぁそれは面白味と言ってもよいのだが、これほどまでに体感が異なるのだとすると、アンサンブルにおける各楽器担当者間でコミュニケーションの難しさが発生することは避けられないだろうなと痛感する。 ので、一個人から演奏感覚の違いをできるだけ言語化してみる記事を書いておこうと思った。 何度も言うが力量は微妙。かつ学術性信憑性ゼロ。主観盛々。 あくまで一意見としてご覧ください。 最
と題してみたが、もう少し広い領域の話題を含むことになる気はする。 音楽家じみたことをやり続けていると、どんな曲を聴いて「そう」なったんですか?というような意味のことを訊かれることが往々にある。ひとつも悪い気はしないし、話題を振ってもらえてありがたい気持ちが大部分を占めることは前提として、ただそれに対して期待されるような答えが返せないことを申し訳なく思う――というのはまぁ自制であって、実際には「曲ではないのですが」という脱線宣言を用いてならば続けたいあれこれはあるのだ。 た
味の違いを言語化することにつかれて、肝心の味を覚えてないことに気付いた。そしてまた、気付いただけましだ、とそのように思った瞬間、味はさらに遠のいた。何もしないことに耐えられない、ただそれを浴びるだけということのみで時間を過ごすことができない。だから味を説明して回った。全体的にすべてが甘い、丸い、それ自体を強く感じると言うより対極にあるものが遠ざかっていく感覚、丸みの対極にあるものが遠ざかっていくような味覚の傾きを感じながら数日を過ごし、つかれ帰ってからまた数日、休まることのな
自転車によく乗る。長らく一般的なママチャリを愛用していたが、2019年末に自身の膝の不調に伴いYAMAHAの電動アシスト付き自転車を購入。膝痛は運動の負荷というよりも曲げ伸ばしのスピードと回数に応じて発生することがわかり、思ったほど劇的な改善はなかったものの、それでも比較的楽にはなった。同時に、かごがでかくなったり椅子が上質になったりといくつかの改善があったわけだが、中でも大きなトピックのひとつに、自分の走行速度を数値で確認できるようになったことが挙げられる。漠然としたイメー
もし世界へのあこがれそれのみが作品を支えているとして、それが消えてしまったら作品も力を失うのだろうか その作者はもうそのあこがれを信じることができない そんなときがきたとして それ以前に作られた作品群は、その瞬間、作者のそういった心持の変化を受け入れて、一斉にその輝きをひそめるだろうか 奇怪な話だが 僕はそれはもしかするとあり得るかもしれないと思っている 僕はそれをあり得るかもしれないと思い続けたいのかもしれない 順当な話として その作者がもうそのあこがれを信じることができな
先日(と言ってもだいぶ前だが)自身のバンドのドラマーと久しぶりに会う機会があって、音楽理論の講座――というほど堅苦しいものでもないが、その手の話をさせてもらった。ちかごろは多少名の知れた仕事もしている作曲家なので、そんな人を相手に理論の話をするというのは若干の責任を感じなくもないが、まぁ私の中だけにあり続けるよりかはいくらか世の中のためにもなるのではないかとも思うので、謹んでお受けした……というのはずいぶんと脚色を加えた書き出しであり、実際には訊きたいといわれたらするする喋っ
いりぐちはいつもちかくで いそぐときそのあしのそばにあるよ おとしあなのようにまってる きみがそれをふみぬくまで いのちがけのつもりもなくとびおりることができたら さぁ、どうしようもないことなんてあるとおもうかい? きずぐちはいつもちかくで いきつぎのたびいろをぬるよ おとしあなのようにねがってる きみがそれをはがすときに はなびがあがることをおもいだす はなびがあがるたびにおもいだす つきはきれいだという つきはきれいだという ぼくらのくに、いちどはそのうたをつくった
というのはまさに今現在のことだが、しかし具体的に早朝とはどの程度の時間からを言うのかよくわかっていない。時刻は4時23分。いつか聞いた意見で「日が昇り始めているかが重要」というものがあって、なるほど明快な考え方だと思った。その場合、時刻のみならず日付が、さらに言えば地域が――日の出の時刻情報、日本的に言えば季節が重要ということになる。本日12月7日は、ざっくりとくくれば冬に含まれるものであるとは思うのだが、秋から冬の切り替わりもはっきりとしない。特に近年は春や秋は実在しないの
基本的には諦めが悪い方だと思っていて、というよりはっきり、逸脱した領域ではないかと思っているのだけれど、たとえばそれは(あまり開き直って書きたいものでもないが)遅刻癖にもよく表れているように思う。「意識すら無いタイプの寝坊」をすることはほとんど無く、一度は問題ない時間に目覚めるものの、ただ限界まで「寝て回復する」をやり続けたい、回復を諦めたくないみたいな感触によって、結局実質的な寝坊をやらかすのである。そしてまた問題なく起きれたとしても、ぎりぎりまで荷物に不備がないか何度も確
シリーズの趣旨は第一回を御覧くださいませ と言いつつ今回は本来の趣旨から若干離れる感があるが、ふとしたきっかけで過去のツイートを発掘し、これは残しておこうと思ったのでこちらに転載する(別シリーズの記事を立てるのも面倒だし) 音程の把握に関するツイートである。 まぁ埋め込んでしまえば、これ↓ 要は絶対音感的なものが必要とされた時に、その強度を上げるために特定の楽曲を脳内再生することがある、というツイートなのだが。 そこに続くツリーがなかなか興味深い。 ちなみにこの男、とく
とある訃報を聞いて夜の街を歩き、自分にとって創作の原点が何だったか思い出したので、こちらにしたためておこう。創作、というほどのことをしているとも思っていないのだけれども、そのように呼ばれることの多い行い。でも、練習、とかでもよかったと思う。何かを作り出していなくても、あまり関係ないかもしれない。そこに境界は、なにひとつないとまでは言わないけれど、両者には共通する部分もあるようには思う。ともかく私にとってその手の行いは、つまるところ、何をすべきかわからなくなったときにするもの、
さまざまな作業が混線して自分が何をすべきかわからなくなることがあって、そういうとき、自分が無意識に抱えるタスク……過去計画していたあれこれの発掘作業をしてみることがある。何かをしようと思い、やりきれずに中途半端な状態のまま投げ出されたものたち。 今でもそれは完成させてみたいと思う一方、今から改めてそこに十分な時間を割くことができるのか……はっきり申し上げてしまえば、自分が自身のキャパシティを超える量の計画を立てがちなこと、それでも何ひとつ諦められずにやりとげようとすること、
(けっこう前に書いて下書きになっていた記事を公開してみることにした) いわゆる差別用語、というものについて、その使用を控えるべきだという考え方には基本的には同意するものの、そしてその難しさや空虚さについての指摘も正直もっともだと思いつつ、そういった是非とはまた別の視点として、違和感のようなもの――あるいは単なる興味――を感じたことがある。それは、そういった形で「使えない言葉」が増えていくというなら、この世の言葉の総量がそれを上回るペースで増えていかない限り、いつか使える言葉
なんだって絵になんかなりたいんだ?と訊けばそんな覚えはひとつもないわと返ってくる言葉に胸を射抜かれああなるほど、こっちが勝手に額縁を与えているのだと気付いたんだそうだ。ところで疑問なのは、それでは「絵になっている本人」は、その絵の中で、どのように息をしているのだろうということ。ああワタクシいま絵になってますわおほほ、とそのように考えているのだろうか、そんなことを考えながら人は果たして絵になれるのだろうか?などといった意味のことを続けて訊いたそうだよ。だから私自身にはそんな覚え
the phenomenonsの臨界事故という楽曲は私が2011年の3月から6月にかけて制作したもので、当時18歳だった彼が何を思っていたかというのは、実のところ本人にもよくわかっていない。実際にthe phenomenonsがこの楽曲を演奏し始めたのは確か2014年に入ってからだったと思うのだが、タイトルがタイトルなので、その楽曲の意味するところ・意図するところがなんなのかということを説明しなければならないこともたまにあった。その度に何を語ってきたかということもだいぶ忘却の
なにかひとつものごとに関連すれば、そのことの思い出を語ることができることに気付いた。もしかして、誰しもよく用いる手段だったのだろうか?それがわからないのは、そういう手口を気にしたことがなかったからだろうが、仮に気にしていたのなら、誰かの話をもっと興味深く聴けたり、あるいは自分からそういったことを話すことももっと出来ていたのかもしれない。そうでなくとも、自分の周囲で起きていたことが、もう少し鮮明にわかっていたかもしれないのだ。それがよいことなのかはさておき、そしてまた、そういっ