知識の行先

先日(と言ってもだいぶ前だが)自身のバンドのドラマーと久しぶりに会う機会があって、音楽理論の講座――というほど堅苦しいものでもないが、その手の話をさせてもらった。ちかごろは多少名の知れた仕事もしている作曲家なので、そんな人を相手に理論の話をするというのは若干の責任を感じなくもないが、まぁ私の中だけにあり続けるよりかはいくらか世の中のためにもなるのではないかとも思うので、謹んでお受けした……というのはずいぶんと脚色を加えた書き出しであり、実際には訊きたいといわれたらするする喋ってしまうのが私である。

実際にはそんなたいしたことを話してもいなくて……本人からの希望で「過去作った曲や世の中の有名な曲に関して、そこでチョイスされている和音にはどういった心情意味があるのか」みたいなことを思い付くままに喋り続ける、という形で行われた。この形式を提案されなかったなら、もしかすると講座自体を断っていたかもしれない。実はこれに近いことを何年か前(たぶん2016年ごろかと思うのだが)一度行っていて、それを再びやってほしいということだったのだ。

同じような形式とは言えど、2016年?のそれと今回のそれとでは、私の個人的な趣は異なってはいた。よそから見たら似たようなことをしていたとは思うのだけれど、自身の内面的には、それを語る時のニュアンスが変化しているというか。先にも書いたが、訊かれた内容が「それ」でなかったら、断っていたかもしれない。それはつまり、語るとしたら「それ」でこそあろうと、そのように思う気持ちが、私の中で2016年時点よりも強まっていたということである。言い換えれば、「それ以外」を雄弁に語ってみせることが当時よりも難しくなった、とも。

それ以外、とは?たとえば決まり事、こういう和音が出てきたら次はこういう和音にいくべきだという、ルール。その時内包されている度数、その性質、それを再現するとき必要な、楽器ごとの知識、楽器の設計思想との親和性。それは今でも話せるし、話せる内容の量という部分だけで言えば、過去よりも確実に増えていっている。ただ、どうしても、それをそれ単体で話すことができなくなった。そういうものだという割り切りで、それだけを、さも暗記科目のように絶対的なものとして扱うことの危うさ――現実的にはそれを不誠実だと断ずることも難しいだろう、時間の限られた中での講座としては、ある程度そういった部分を雑に決め付けてお伝えしてしまった方が短期的によい部分の方が多い気すらする……ただ自分自身はそれを年々出来なくなってゆき、それは相手に対する誠実さと言うのもおこがましく、最も近しい感覚は、自分にとっての真実をねじまげたくないこと、などであろう。

人に話すことによって、何かが確定してしまうことを怖れている。

ちかごろはと言うと自身の作風には確実に不協和音が増え、過去の自分にこれを聴かせたら、もしかすると修整を求められるかもしれない。一般から見ても、過去の自分の方が「和音がうまかった」ように見えるのではないかという危惧はある――なんの危惧なのだろう?無理解が露呈すること?実際、私はそれほど厳密に一般のルールを網羅して理解しているわけでもないので、指摘されればその通りと頷くほかないのは元々そうなのだけれども。

ただ過去の自分ならばそのルールからの逸脱を指摘していただろう不可解な和音の構築も、現在はそこにその意図のような何かを察することのできる領域が増え、なんなら今ではそちらの方が強く興味を惹く。面白いことに、ほぼ同じ理由を以て、シンプルな和音に対する接し方も以前より見つけられるようになった。過去の私はパワーコードを弾くことがかなり苦手だったのだが、現在はいくらか、それをどのような意思を伴わせて弾けばよいのかがわかるようになった気がする。

話すべきは、そのルールがどういった秩序を描いているのかということ、それを自分なりどう捉えているかということかもしれない。不協和音が理解できないことと、パワーコードに魅力を覚えないこととは、概ね同じことだと筆者は考えている。

さて、それでは年月を経てそれらへの接し方を見つけることができたとき、それは知識の行先と呼ぶべきものなのだろうか?ある意味で言えば、近年筆者が用いるようになった不協和音の数々などは音楽理論的には赤点を喰らいそうなもので、作曲が下手になったという誤解を生みそうでもあるのだが、厳密にこの「下手になった」を否定しきれるかというとそうでもないのかもしれない。ただ、それで言えば私は、「下手である瞬間」までをも音楽が含んでいて欲しいということも、以前より強く思うようになった気がする。それは単体の一楽曲の中にあってもいいし、もっと広い視点でもよいのだが――総じて、文脈ということかもしれない。関係性、因果、文脈。

連続性の中で意図を発現しながらも、ある一瞬間を切り取って眺めることもできる、というのが和音の重要な視点のひとつであることを思う。そしてそれは、一個人に宿る和音の知識と心情の関係についても、人の生きる時間の経過において、そうなのではないかと思う瞬間はある。

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