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子供と、生まれる前の記憶と、沸き上がる希望と

自分の事が嫌いだった頃は、子供を欲しいとは思わなかった。相手に似ていれば良いけど、もし自分に似てしまって、その子供が目の前にいたらと想像するとゾッとした。自分の嫌な部分を凝縮したようなその子(想像上の)をちゃんと愛せるとは思えなくて、そんな子は生んではいけないとさえ思っていた。

長い時間をかけてようやく自分の事を好きになった今は、自分にそっくりな子供がいたら愛おしくてしょうがないだろうし、「大丈夫だよ」と、ぎゅっと抱きしめてあげるだろう。あと、幼い頃から年配者ばかりに囲まれて育ってきた私は小さな子供が苦手だったけど、今は子供はどの子もみんな可愛くてしょうがない。

ある時この事に気付いて、まるで自分の中の呪いがとけたように感じた。これはただ、私が歳をとったということなのだろうか。

皮肉なことに、折角呪いのとけた私は、もう子供を授かる体でも無くなっていた。

どうして人はそれを得られないと分かると、更に求めてしまうのだろう?

というか、そもそも私は何のために子供が欲しいと思ったんだろう?


先日、「おかあさん、お空のセカイのはなしをしてあげる!胎内記憶ガールの日常」(竹内文香・著)という、胎内記憶・中間生記憶を持つ子供の話を読んだ。生まれる前の記憶を持つ子供は結構たくさんいるみたいで、ネットで調べればブログ等で体験談がいくらでも出てくるし、本であれば産婦人科医の池川明さんのものが有名だろう。

残念ながら私の一番古い記憶は多分1~2歳頃のものだ。(世間では3~4歳頃が一般的みたいなので、私は古い方だと思うけど)不思議で壮大な生まれる前の世界のことを覚えているなんて、単純に羨ましい。読み始めから最後まで号泣しながら読んでしまった。あたたかい感動だけでなく、胸がきゅっと締め付けられるような複雑な気持ちが入り交じりながら。

「子供は両親を選んで生まれてきた」という話は、受け取り手によっては、とても嫌で辛い気持ちにさせるものだ。貧困や虐待など酷い家庭環境に生まれ育ってきた人にとってはとんでもなく受け入れ難い話だし、子供が欲しくても授からなかった人にとっては「自分は選ばれなかった」という悲しみに打ちのめされるだろう。著者はその辺もとても気に掛けていて、語られるエピソードや読者へのメッセージにも配慮が感じられた。

辛くて受け入れられない人は、本当かどうかも分からないこの話を受け入れる必要は全くなくて、「冗談じゃない」と言ってさっさと頭から追い出すのが良い。そして、自分を追い詰めたり悲しくさせる考えじゃなくて、もっと自分を楽に幸せにする考えを取り入れたらいいと思う。人生で取り組むべきことって、自分自身を幸せにすること以外にないと思うから。

私はというと、少し複雑な気持ちがありつつも、そんな不思議な見えない世界のことを信じたいなぁと思った。本に書かれてある感じでは、空の上の赤ちゃん達は、下界の私達と違ってとても気楽で幸せそうに見えたし、それに「生まれる前に自分で決めてきた」のなら、どんなに辛いことがあってもなんとか乗り越えられる、ということの証のような気もするからだ。

「こんなに酷い状況で一体どうしたらいいんだろう、もうダメだ、おしまいだ」

となったらもうそこで終わりだけど、

「こんなに酷い状況で一体どうしたらいいんだろう、でもここから何を学べるだろう、どうやって這い上がれるだろう」

こう思えたら、少し力が沸いてくる。だから、私はいつも後者の考えをするようにしている。

【私が好きな言葉】

☆人生でもっとも輝かしい時は、いわゆる栄光の時なのでなく、落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来に成し遂げる展望がわき上がるのを感じたときなのだ。/ギュスターヴ・フローベール(小説家)
☆辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな字である。/星野 富弘(詩人)



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