小説: 君は本当の宮本武蔵を知らない: 第1話
澄みわたる青空の下、九州熊本城内では4年に1度の写生大会がひらかれていた。
と書くと、のどかな光景を思い浮かべるかもしれないが、実際にはまったく違う。
筆を握る男たちの目は血走り、震える手から滴る墨が地面に散っていく。まさに剣を筆に置き換えての真剣勝負そのものだった。
「それまで。筆を置かれよ」
審判と思われる武士が片手を上げ、宣言した。張り詰めていた空気が一瞬だけ緩み、四人の男たちは名残惜しそうに顔を上げた。画版に載せられた絵を、少年の面影を残す若侍がうやうやしく集めて回る。
「今回はどっちだろうな」
遠巻きに見ていた藩士の一人が連れにささやく。
「今年も、だろ。よっぽどのことがない限り指南役なんて変わらないさ」
「甘いな」別の男が訳知り顔で言う。「あの青い着物の絵師こそ、今売れに売れまくりの館野天海よ。国中の花魁が『てんかいさまぁ。あちきを描いてくれぞなもしでありんす』なんて追いかけてるって話よ」
「ふっふっふ、若いな」年配の侍がさらに口を挟んだ。「たしかに館野派のあやつは上手い。俺も何枚も買ってお世話になっておる。でもな、上には上がいるもんで……」
人垣の向こう、縁側の奥では老中たちと殿様が画版を次々と手に取り、うなずき合ったり、何かを指差して話し合っている。その間、青い着物を着た館野天海と、その師匠らしき初老の男は微動だにせずかしこまっていた。とくに天海の背筋をぴんと伸ばしたその姿は、悲壮とさえ言える気迫をまとい、やじ馬たちにまで伝わってきた。
やがて老中たちの意見がまとまり、画版が重ねられると、それを少年武士が縁側の下から受け取った。
「結果を申し渡す」
張り詰めた空気の中、老中が一歩前に出る。
「この勝負、まことに僅差であった。厳正なる吟味の結果、若君の指南役は――」
いったん言葉を切り、平伏する武士たちを見回す。充分すぎるほど間を取ったあと、老中は静かに続けた。
「引き続き、凪殿にお願い申す」
「あいや、待たれい!」
悲鳴とも叫び声ともつかない声がその場を震わせた。
「無礼者っ!」年寄りの一人が片膝を立てた。
「無礼は重々承知の上。この館野天海、命と引き換えに物申しておる!」館野天海は地に頭をこすりつけながら叫ぶ。「私の、私の絵が劣っているという証拠を、なにとぞ示していただきたい。それなくして、この館野天海、一歩も動きませぬ!」
「おのれ、たび重なる無礼を!」
老中がいきり立つのを、殿様の細川忠利が手を上げて制した。
「よいよい、下がっておれ」
忠利は相好を崩し、あぐらに片肘をついて語りかける。
「のう、凪の。面を上げい」
「はっ」現在、若君様の御絵師を務めている凪宗達が静かに顔を上げた。
「相手はこう申しておる。どうするな?」
「は。では、おそれながら――」
凪宗達は落ち着いた声で語り始めた。
「天海殿の気迫、絵筆にかけるお心根。まことに見上げたもの。また、世間でも天海殿の描かれた花魁、町娘どもの美人画はとりわけ若い衆のあいだで引っ張りだこの人気でございます」
やじ馬たちの間から小さな失笑が漏れる。平伏したままの天海の首筋が朱に染まった。
「ところで、先ほどご老中様のお言葉。僅差であったとのこと。それも、わたくしの至らなさを思いやってのお言葉であろうと存じます。されば――」
殿様が眉を上げた。「されば、何とする?」
「若すぎるゆえに指南役には早いと、この試合には参加させなかった者がおります」
凪宗達はちらと画版を抱える少年武士を見た。「あれに見える利助こそ、わたくしはおろか、館野天海殿をも凌ぐ腕前でございます」
場の視線が一斉に利助に集まった。少年は戸惑い、体を少しよじった。
「ほう、面白い」忠利が膝を叩いた。「利助とやら、こっちへ参れ」
利助は恥ずかしそうに縁側へ歩み寄る。
「いくつになる?」
「十四です」
「なんと。そうか、せがれの六丸が十だから、遊び相手にもちょうどよいな」
館野天海の首筋が再び赤く染まった。殿様の心が向こうに傾きかけている。