見出し画像

ジャズの日々(1):京都烏丸丸太町

 1973年のことだった。
 中学2年生だった僕は、3人のともだちと一緒に、ジャズ喫茶にいた。
季節がいつだったか、はっきりとした記憶がない。ただ、そのとき僕たちは、詰襟の制服で、コートは着ていなかった。だからたぶん冬ではなかったと思う。
 京都御所のすぐそば、烏丸丸太町の南西角にあった「ケント」というジャズ喫茶だった。3階か4階建てのビルの一階にあったが、今はもうそのビル自体が影も形もない。当時京都には、多くのジャズ喫茶があったが、そのほとんどは、ケントと同じような運命を辿っている。 
 ケントは、ジャズ喫茶としてはソフトな方で、しゃべっても怒られないところだった。近くにともだちの自宅(染物屋)があって、彼の家に行ったついでに皆で寄ったのだった。まだジャズのことなんか誰もよく知らなくて、ただ、近所のちょっと大人びたカフェくらいにしか思っていなかった。
 世の中はオイル・ショックで騒然としていて、トイレットペーパーを確保するのに母親たちは奔走していたけれど、中学生の僕たちは、そんな騒ぎを横目で見ながら、映画や音楽や文学やアイドルの話に夢中だった。まだ僕は、コーヒーにミルクと砂糖を入れて飲んでいた。

 多分あれは、その年に劇場公開された、スピルバーグという初めてその名を聞く監督の映画『激突』がいかに衝撃的だったかについて喧々諤々話をしていた時だったと思う。ふと、店内に鳴っていたピアノの音が旋風のように耳に入ってきて、意識のアンテナが立った。「ん?」。
 粒だったイントネーションの、弾むようだけどどこか粘りもあるタッチに惹かれた。聴くほどに心がざわっとしてきて、普段はそんなことはしないのに、その時は不思議なくらい素直に立ち上がってカウンターまで行き、中で洗いものをしていたマスターに尋ねた。
 「今かかっているやつ、なんですか?」
 「ウィントン・ケリーという人の『ケリー・アット・ミッドナイト』というやつだよ……」
 何も知らない中学生に、あの頃まだ四〇歳前後(?)だったように思うけれど、人当たりのいいマスターは諭すように教えてくれた。

 そして、当時阪急電車で通学していた僕は、ケントからの帰途、自宅近くの駅で降りたあと、まっすぐ裏通りにあったレコード屋に行き、『ケリー・アット・ミッドナイト』(1960)を買った。一月分の小遣いをその一枚で使い果たし、その夜から僕は、このレコードを何度も何度も聴いた。
 やがてケリーのソロだけじゃなくて、ポール・チェンバースのベースソロも、フィリー・ジョー・ジョーンズのドラムソロも、自然とレコードに合わせて口ずさむようになった。
  ドラムソロを口ずさむというのも変な話と思われるかもしれないが、僕は、このアルバムのフィリー・ジョー・ジョーンズのドラムを聴いて、初めてドラムが歌を歌うことができることを知ったのだった。試しに一曲目「テンペランス」の後半に出てくるケリーとの掛け合いの部分を聴いてみるといい。タイム感覚を自由に操る彼の魔術にすぐ触れることができる。そして彼のドラムと楽しげに対話をしながら、どんどんとトリオ全体を推進していくチェンバースのベースの力動感。

 ケリーはこうして、僕にジャズの扉をひらいてくれた。
 マルセル・プルーストの紅茶とマドレーヌではないけれど、音楽が強力な記憶の喚起剤であることは、誰しもが知っている。『ケリー・アット・ミッドナイト』の全曲目が、僕にとっては、あの1973年の経験をアリアリと想起させる。懐かしいというのとは少し違う。ほとんど自動的に、かつあまりにも鮮明に想起させられてしまうので、時には鬱陶しいと感じるくらいだ。
 だから、冷静に聴けているのか、時々自信がなくなるが、ケリーというと、多くの人が『ケリー・グレート』(1959)と『ケリー・ブルー』(1959)を真っ先に挙げることにどこか不満を感じる自分がいる。また、同じように、ケリーの名が、よくマイルス・デイヴィスのグループのメンバーとして言挙げされることがあるが——『カインド・オブ・ブルー』(1959) や『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』(1961) など(前者では一曲だけの参加)——、それもどこか不満が残ってしまうのだ。
 もちろん、もともとダイナ・ワシントンの伴奏をしたり、ディジー・ガレスピーのバンドにいて、渋く洗練された脇役をずっとこなしてきたケリーであれば、そういったアルバムでの彼が「いい」ことはたしかだ。だけど、こと彼自身のピアニストとしての可能性の広がりということになれば、『ケリー・アット・ミッドナイト』を超えるものはないというのが、ずっと変わらない僕の印象だ。

 ところで、今挙げた三枚のアルバムがどれも1959年に、そして『ケリー・アット・ミッドナイト』が翌1960年にリリースされていることは、この時期のケリーがいかに充実していたかを雄弁に物語っている。だけど、この時期が彼のピークのようにも見えてしまうのは、もしかしたら彼の不幸なのかもしれない。というのも彼は、この時期の達成を超える展開を見出せないまま、1971年にカナダのとあるホテルで、40歳の若さで客死してしまうからだ。原因は、持病だった癲癇の発作だったという。
 なので、僕が初めてケリーに出会った1973年には、彼が他界してからすでに2年の時間が過ぎていたのだった。遠くの地ですでに亡くなっていた縁もゆかりもなかった人と、あんなふうにして突然出会ったのかと思うと、レコードという媒体、いや、これはあらゆる形式の「作品」や「つくり物」について言えることなのかもしれないけれど、国境だけではなく生死の境界も超えて届くその交信力にあらためて思いを馳せたものだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?