残酷なこの世界の中で
執筆者: Kei Asahina(@kei_asa_hina)
1997年 鹿児島出身 Film Director / Creator
映画監督として、初監督作となる『ファースト・ラブ バット ワン・エンド・ラブ』で西東京市民映画祭、横濱インディペンデント映画祭にて入賞。12ヶ月連続ショートフィルム『セカイはキミのもの』を制作中。
映像制作会社であるharuzion.LCCのCEO。
きっかけをくれたのは、母だった
家に帰ると、料理をする音、テレビの音はセットで少し賑やかで。
それは毎日365日変わらない。
家には鎮まることなくテレビの音が、家族が寝る直前まで響いている。そんな家庭で育って、今思えば……私が「映像」と恋に落ちてしまうことは決まり切った運命だったのかもしれない。
「映像」という世界に導かれるきっかけを与えてくれたのは、紛れもなく母だった。母のイメージは、強い女性だ。
私は小さい頃から本が好きで、よくジャンヌダルクの伝記を図書館で借りて読んでいた。歴史の偉人みたいに強くて、私の味方をして守ってくれる。私が狭い世界しか知らなかったこともあり、母へのイメージは壮大だった。
私は小さい頃から今まで変わらず思考が”新幹線型”で、「やりたい!」と思うとそのまま突っ走ってしまう。しかも高速で。
そんな私を心配しながらも、「あなたの味方だよ」とはっきり背中を押して応援してくれた母にとても感謝している。
いまでも私が成長するたび、母の強さや優しさを強く感じる。
忘れもしないある日のこと、母がテレビドラマを見て涙を流していた。
私はその時小学生だったけど、衝撃の出来事だったから、今でも思い出す。テレビドラマの内容は思い出せないけど、家族をテーマにした話だった気がする。
人前で決して涙を流すことなかった母がドラマを見て感動している。
それを見て確信した。映像には人の心を動かす力があるのだと。
母が涙を流すような作品を作ってみたいな、と思った。
映像と恋に落ちる
私が通っていた高校は家政系の専門高校で校則も厳しかったけど、なぜか私は日常的にカメラを持ち歩くことが許されていた。
運良く、私の手元にはデジタル一眼のカメラと父から譲り受けたPCがあり、父が送別会などの余興のために、簡単な映像を作っているのも見ていた。
そんないくつもの偶然が重なって、私は映像と出会った。
高校1年生の頃、MixChannel という動画投稿アプリが流行っていて、私の周りでは「動画編集といえばケータイ!」という認識だった。
私はその流れに乗らず、映像制作をしていた父の操作を真似て、パソコンで作ったスライドムービーを友達の誕生日にプレゼントした。
「あなたを笑顔にしたい」と思いながら映像を作り、その気持ちは次第に「たくさんの人に見てもらいたい」という欲求に変わっていった。
それから私は、高校の中で「映像といえばあいつだ」と思われるようになった。文化祭では、私の作った映像をたくさんの人に観てもらって、泣いたり笑ったりする先輩や友人を見て、私には "映像" しかないと確信した。
家政系の高校だったから、料理の道を進む選択肢もあったけど、料理は生活と密着しているし、何より、私は「映像は趣味で作る」という選択肢を選べなかった。
死ぬまでに会ってみたい人。好きな映画監督や、私に影響を与えた素敵な役者、これから一緒に作品を作り上げる、まだ見ぬチームメイト。
彼らと出会うには、「映像」を仕事にする他ないと思った。
がんこちゃんを通した先に
私はめちゃくちゃ頑固だ。
「これがいい」と思ったら絶対に実行に移してしまう。
私の親は映像業界のイメージが悪く映像の道を進むことを反対していた。それでも、私は親が寝てから映画5本をぶっ続けまで朝まで見ている日を繰り返した。こんなに本気だぞ、と見せつけるように。
親も呆れてしまって、映像の専門学校へ進学することを渋々許してもらった。私の粘り勝ちだ。
高校を卒業したあと、地元を離れて福岡に引っ越した。
最初は寂しかったけど、友達ができると朝まで映画を見たり、ひたすら遊んだり、バイトをしてみたり。
「勉強よりも遊び!」という感じの怠惰な毎日を送っていた。
そしてふと、「私何がしたいんだろう」と思った。
両親からの反対を強引に押し切って、福岡まで出てきたのに私は何も身につけていない。そんな想いを抱いている最中、ある人との出会いで、私は再び映像へ引き込まれていく。
一年生の夏休みに、ある映画監督の講演会が学校で開かれた。
それが、私の目の前に初めて『映画監督』が現れる瞬間だった。監督の役者の引き出し方や色彩、画へのこだわりに惹かれた。
その人とどうにかお近づきになりたい! その一心で、講演後に監督に話しかけた。それからその監督の下で手伝いながら、色彩や編集、映像について教わった。
この出会いによって、「学校」と「遊び」で成り立っていた私の生活が、「映像」と「仕事」に変わっていく。
ある時、いつものように監督の手伝いをしていて、「これでいいのか……」と不安になったことがあった。
そんな気持ちを察してくれたのか、映像監督から「キミはオペレーターでいいのか。なりたいのはクリエイターじゃないのか」と言われた。
まるで、静かな井戸の底に一滴の水が垂れたように、
言葉がストンと心に染みた。
「お前は表現者だろ」と対等に見てもらえた気がして、とても嬉しかった。同時に「キミはもうプロだよ」と釘を刺されもして、身が引き締まった。
その監督とは今でも、映像や映画について話している。
私にとっての恩師であると同時に、追い続けている背中だ。
充実した学生生活と残酷なセカイ
”師匠”と出会ったことで、映像と向き合う時間が増えた。
学年が一つ上がり、就活の時期に差し掛かかった頃。
「映像のディレクターとして働きたい!」という気持ちで始めた就職活動は、うまくはいかなかった。
福岡から東京まで、飛行機に乗って受けた大手の会社には、落ちて落ちて落ちまくった。「こんなに落ちるか?」というくらい。
落ちた数なら、同級生のなかでもダントツなんじゃないか。
私には「映像」向いてないな……という諦めがあった。
世間に必要とされていない人間だと感じた。
当時はもう、そのまま「ニートになろう!」と思っていた。
そんなことを考えているうちに季節は、あっという間に夏を迎えた。
就職に向き合わないといけない中、現実逃避したい気持ちと葛藤していた。
その頃、福岡県がタイと福岡の学生で行う共同プロジェクトを募集していた。内容は、1週間で映像作品を制作するというもの。
すぐさま応募をして参加することにした。
言葉と文化の壁を感じながらも、タイと福岡の地域性を活かした作品を1週間で制作した。
そのプロジェクトで出会ったタイの学生とは今でも交流がある。
ある日、タイの友人が「僕は日本で働きたい。キミが日本人なのが羨ましい」と私に言って、その言葉が、現実から逃げていた私を捕まえた。
私は就活を再開し、今度は縁あって映像制作会社で働けることになった。
タイで出会った友人とは、今でも連絡を取っている。
出会いが私を成長させてくれたのだ。
最前線と変わらない色
入社した映像制作会社は、ほぼ毎日違った映像作品に関わるような、すごい会社だった。
一つの作品と関わる時間はどうしても短く、学生時代とは比べ物にならないほど忙しない日々を過ごした。
「このままでいいのかな」
と悩むことも多くなった。私がやりたかったこと、見たかったもの、作りたかったものに、近づけているのだろうか。
そんな時に、『21世紀の女の子』という映画を劇場で観て、悔しさで涙を流した。
なんで、私はここで、この映画をただ観ているのだろう。
同年代の監督は命を削って作品を生み出しているのに。
帰り道、「映画を作る」ということしか私の頭にはなかった。
1週間後、私の手元には完成した脚本が。
そして私は、1本の作品と1人の少女に出会うことになる。
出会いが私を導いて
そうしてできた作品が私の初監督作品『ファースト・ラブ バット ワン・エンド・ラブ』だった。スタッフとキャストが後ろにいることもあり、「どうにか最後まで作り上げないといけない!」という一心で作品を作り上げた。
蜷川実花監督の『followers』みたいに、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)という映画祭にギリギリ滑り込みで応募した。
結果は、ダメだった。でも、「出した」「出来た」というだけで、私はどこか満足していた。
この作品を作った頃、私は会社員として人生で一番忙しかった。その上、作品作りで会社に泊まり込んでもいて、本当の意味で命を削っていたように思う。
主人公を演じる少女の瞳がとても綺麗で、撮影中、私は彼女に魅了されてしまった。私がカメラマンならガチ恋している。
彼女も映画は初めてで、お互い一生懸命に撮影に臨み、とても思い入れのある作品になった。
彼女をはじめとするキャストや、スタッフの皆さんが、私を監督にしてくれた。
彼女ともまた作品を作れるように、私も進んでいく。
その作品で出会った少女が、私にとってのミューズになり、次回作『セカイはキミのもの』に繋がっていく。
セカイはキミのもの
映像を偏愛している様子、伝わっているだろうか。
私はめちゃくちゃ飽き性で、大抵のことは三日坊主にもならないレベルで見切りをつけてしまう。
だから、映像とこんなにずっと向き合えているのが今でも信じられないくらいだ。
それでも、『セカイはキミのもの』を立ち上げてから、
「辞めてしまおう」
「いっそ、消えてしまおうか」と思ったことがあった。
プロジェクトが動き出して、キャスティングに脚本、打ち合わせに目まぐるしく動き回って、働いて。めちゃくちゃ大変だったけれど、形になっていくのが楽しくて。
作品制作に専念すると決めて会社を辞めた。
でも、22歳の未熟な自分では越えられない現実がいくつも立ちはだかり、焦りに駆られて、何にもなれない、何も出来ない、何も持っていない無力な自分に絶望して、
『セカイはキミのものプロジェクト』の続行が不可能であることを悟った。
思えばこの1年、泣いてばかりな気がする。うまくいかなくて、悔しくて。
でも、夢を諦めさせてはくれない自分がいることが、死ぬほど嬉しくて。
そんなギリギリの状況で出会ったのが、今の会社(haruzion)を一緒に運営している花クリエイターのKENTさんだ。「花」という共通のテーマから話が弾んで仲良くなり、「仲良くなったな」と思ったタイミングで「あなた、馬鹿ですよね」と言われたのをよく覚えている。
そのとき直感で、「この人ならなんとかしてくれるだろう」と思ったのだ。
今でもその気持ちは変わらずある。
それから、更にいろいろな人に恵まれた。
一緒にこれからの作品を朝まで語り合うパートナー。
初監督作品で私のミューズになったあの子は、お酒を飲める歳になった。さっそくお酒の力を借りて、夜遅くまで散歩したりして。
もうすぐ夜が明ける気がしている。
曇天だった私の世界にも光がさして。
世の中は大変な時期だけど、だからこそ、表現を辞めることはできなくて。
『セカイはキミのもの』、これから生まれてくる作品たち。
これから一緒に作品を作っていく仲間と共に素敵なものを、私はわたしの全てをかけて撮り続けていく。