29の夏、母が遠いい所に行ってしまった
すこし暗くなる話かもしれない。
でも、何か自分にできることと考えた時に
少しでも変わることができるように。
2024年 8月10日
母は他界した。
年は56歳を迎えた日だった。
なんというのか
早すぎた。
母は一人暮らしをしていた。
見つけられたのは
8月17日のことだった。
母は17年も前から
うつ病を持っており
17年間共に戦ってきた。
そりゃひどい仕打ちも受けたこともあった。
でも、誇らしい母だった。
17年前は
もう治らないと言われるほどのうつ病だった。
だが亡くなる直前は
軽度のうつ病になっていたのだ。
それでもどうだろう
17年間、
感情の波に抗えなく
メンタルが蝕まれていくことは御苦労さんと
言ってあげるべきではないのかなと思う。
今回このように記事を書くのは
別にかわいそうだねと言って欲しいわけじゃなくて
何もできなかった不甲斐ない私からのささやかな
プレゼントだと思って欲しい。
うつ病になって
お金も無くて、生活保護で
家からも出れず誰の記憶にも残らないような
生活をさせてしまったことを
本当に申し訳ないと思う
私のエゴだけど
あなたには誰かの人生を変える、
そして
誰かの記憶に残ってもらえる存在になれたら
嬉しいと思っている。
もう12月になってしまったけど
あなたは今どんな景色を見ていますか?
私もなんとなく
こんな生活に慣れてきました。
でも、ふと思い出します。
あの時私の選択が間違っていなければ
もっと長く生きていたのかなと。
もしくは、
もっと早く見つけてあげれたら
あんな姿にはなっていなかったのかなと
少し時を遡ろう。
8月10日
私は祖父母の家に行く為
お盆休みの計画をしていた。
母は祖父が嫌いで
うつ病の原因だったりした。
祖父は昔ながらの農家の人で
癖の強い人である。
母は8月5日ごろより
うつ病の症状が出ていた。
ODはするし
睡眠薬は飲んだ状態でいろんなところに
迷惑をかける行動をしてしまったり。
ほぼ意識のない状態で
行動をしていた。
次の日に話を聞くと
「覚えていない」と言われる。
私はこの
「覚えていない」という日は
本当に自分を制御できていない日だと認知していた。
8月10日
一通のLINEが届いた。
「私も連れていって欲しい」と
私はその内容に対して
「いやいや、そんな状態じゃ連れていけないよ
祖父の行動とかに耐えれなくて祖父のとこで面倒ごとが増える
だから連れていけない」
と伝えたのだ
その後に
母から
「あなたは私の誕生日は1人でいさせるんだね。
あなたには私は不必要なんだね。」
「あとは1人でやってください。」
「さようなら」
というラインが届いた
それに対して
私はいつものように対応をした。
「なんでそうなるのよ」
これ以降母からのラインは来ることはなかった。
本当に何もこなくなった。
8月13日
祖父母の家から帰ってきて
母にラインを送った
返事は来なかった。
心のどっかで
うつ病で敵対視され
私にも返事を送ってこないのかなと思い
母の友人にも
母に連絡してみてくれないか?
と相談をした。
誰かに対して
連絡をうつ病の間
返事を返さないということは
多々あった。
8月14日
母の友人から連絡きた
「いや、連絡出ないんよな。
連絡ぐらいでてくれたらいいのに」
と言われ相当ひどいのかなと思いながらも
私が行くことで
母を刺激してしまうのではないかと思い行くのを躊躇したのだ
8月16日
ずっと連絡がこない。
嫌な予感がした。
こんなに私に返事がないということはないからだ。
21時ぐらいにバイクで
母の家に向かう。
無事であってくれと。
そんな思い出いっぱいだった。
アパートにつき
扉の鍵を開けた・・・
でもチェーンロックで
ドアが開かなかった。
臭いはしない感じがした。
電話を鳴らす
米津玄師の「ピースサイン」が
玄関までなり響く。
家にはいるんだ
「母さん」と呼ぶ声も虚しく届かない。
1時間ほど鍵が開くかなども試したが
開かなかった。
夜も遅かったから
その日は諦めて次の日の朝に改めて向かうことにした。
8月17日
住宅会社に電話をし
救急車と警察を呼んだ。
救急隊の人が
簡単にチェーンロックを開ける。
その瞬間異臭がした。
内心どこかで
あ、やっちまってるかもと思っていたが
確信に変わった。
救急隊の方に
息子さんが先にいって確認をしてみてくださいと
母のいる心室に行く。
私の心臓ははち切れそうだった。
「母さん」
「起きて」と言いかけ
手元を見た
手の色が黒くなっていた。
そして布団をよけ
足元を見た時に
鬱血で足元が黒く変形をしていた。
全てを察した自分。
救急隊に
母のことを任せた。
焦る気持ちと
冷静な自分。
うつ病の介護をしていたせいか
母が死んでいるのに
冷静だった。
救急隊の人に私は声をかけた
「すみません。母は生きていますか、まだ、助かりますか」と
救急隊の方は顔を横に振り
「この状態だと亡くなってから時間が経過している為
残念ですが、可能性は0です」と言われた。
なんというか
自分が許せなくなった。
俺の記憶には最後死ぬまでの最後の記憶は
母が鬱でご飯の味もまともに分からず
薬で目が座っていて
笑うことはなく病気に負けていた時の顔のままだった。
17年間、共に面倒を見てきて
母をいつものように戻す
自信はあった。
でも、最後は治せなかった。
頭にはそんなことを考えながら
警察に母を任せた。
うつ伏せで寝てた為
母の顔は見れなかった
なんで見なかったんだろうと思う気持ちや
後悔が襲ってくるなか、
冷静に周りの人に電話をした。
〜〜〜〜〜
ここまで読んでいただき
誠にありがとうございます。
長くなってしまう為
パート2にて
続きを記載します。
ぜひ次も見てくださいね。
改めてここまで
ご視聴いただきありがとうございます。